二代 田辺 竹雲斎
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(明治43年(1910年) - 平成12年(2000年)) 本名:利雄。1910年、初代竹雲斎の長男として堺市に生まれる。5歳のとき、初代竹雲斎の個展会場で亀甲編みを披露。周囲を驚かせたというエピソードを持つ。9歳より、文人の教養として漢学者の土田江南に書を学んだほか、南画の素養も持つ。21歳のとき、編み込みの中に龍が踊る唐物風の「蟠龍図盆」で帝国美術院展覧会に初入選。以降、帝展、文展、日展に連年入選を果たしている。27歳のとき初代竹雲斎が他界し、二代竹雲斎を襲名する。この頃から作風が変わり、細く薄く削がれた竹籤による透かし編みを得意とするようになった。初代の得意とした重厚な「唐物」に対し、二代竹雲斎の作る籠は繊細で細やか、日本らしいとして「和物」と呼ばれた。 戦時中は河内長野に10年ほど疎開していたが、竹工芸を続けいきたいという信念から、終戦後まもなく高島屋で個展を行い、堺に戻った。勲四等瑞宝章、紺綬褒章を受勲し、日展評議員も務めている。60歳を過ぎてから「竹の特性に着いてゆけばええだけなんです」という心境に達したと語り、竹の癖や性質を生かすことを大切にしていた。
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