中川家歴代とは? わかりやすく解説

中川家歴代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/29 05:47 UTC 版)

中川浄益」の記事における「中川家歴代」の解説

初代:紹益(紹高、1559年 - 1622年越後出身。元は先祖同じく武具製作するが、千利休依頼指導により薬鑵(やかん)を作ったのを契機に、現在の家業である茶道具作り始めたとされる代表作利休薬鑵」。 二代:浄益(重高、1593年 - 1670年寛永年間千家出入職方となる。表千家四代江岑宗左より豪商佐野灰屋)紹益と名前が紛らわしいことから浄益に改めるよう申しつけがあり、これ以降代々「浄益」を名乗るまた、妻は金森重近宗和)の娘。 三代:浄益(重房長十郎のち太兵衛1646年 - 1718年技術的に困難であった砂張(さはり:・錫・鉛の合金)の製法発見して多く名品残しており、歴代中でも鋳物名人として知られる四代:浄益(重忠のち友寿・源吉1658年 - 1761年)3人の息子恵まれ息子達と共に家業隆盛に励む。 中川源介友忠(1685年-1759年9月4日代表作覚々斎好渦唐金水指」。父の長命のため、跡を継げないまま没。 中川治兵衛友輔(生没年未詳兄・友と共に工・鋳物の技に優れていたとされる五代:浄益(頼重源吉、吉右衛門1724年 - 1791年四代三男。この代から代々「吉右衛門」を名乗りとする。表千家八代啐啄斎に重用される。晩年天明の大火遭い過去帳1冊以外のすべての家伝家財消失六代:浄益(頼方、1766年 - 1833年五代息子啐啄斎の機嫌損ね一時表千家出入り禁じられその後裏千家のみの御用務める(詳しい理由不明)。了々斎の代になって許される歴代随一茶人であり、「宗清」の茶名持っていた。 七代:浄益(頼実、1796年 - 1859年)「砂張打物名人」「いがみ浄益」といわれ、天明の大火以後様々な事情でふるわなかった中川家中興人物といわれる。妻は飛来一閑三女・九満。 中川太郎紹明1828年1845年4月8日七代嫡男17歳早世八代:浄益(幾三郎1830年 - 1877年七代婿養子三井家手代麻田佐左衛門息子、妻は七代の娘・戸代。幕末明治転換期に先を見通し京都博覧会開催尽力。また「浄益社」を設立海外へ日本美術紹介を行うなどするが、様々な事情により失脚失意の中48歳で没。 九代:浄益(益之助・紹芳、1849年 - 1911年八代息子茶道衰退期家督相続父方の縁により三井家などから援助を受けるが、家業建て直しうまくいかず、逆境の中アルコール使用障害となる。職人としては一流であったが、伝統工芸理解のない時代だったため世間からは認められなかった。不遇のまま没。 十代:浄益(淳三郎・紹心、1880年 - 1940年九代息子早くから大阪道具商のもとに修行出される父の死により家督相続第一次世界大戦勃発による軍需景気にのり負債完済中川家再建基盤作る代表作青金寿老」「布袋像2体」(以上三井家)「祇園祭岩戸山金具(2分)」。 十一代:浄益(紹真、1920年 - 2008年十代息子1940年父の死後、浄益を襲名した2008年死去

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