世界旅行と『モダン・タイムス』
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「チャールズ・チャップリン」の記事における「世界旅行と『モダン・タイムス』」の解説
1931年初めにチャップリンは休暇を取ることを決心し、16ヶ月間に及ぶ世界旅行に出かけた。チャップリンはイギリス、フランス、スイスのサン・モリッツでの長期滞在を含めて、西ヨーロッパを何ヶ月間も旅行した。チャップリンは至る所で大歓迎され、多くの著名人と社交的関係を持った。ロンドンではジョージ・バーナード・ショー、ウィンストン・チャーチル、マハトマ・ガンジー、ジョン・メイナード・ケインズと会談し、ドイツを訪問した時はアルベルト・アインシュタインの自宅に招待された。チャップリンはヨーロッパ旅行を終えると、休暇を延ばして日本へ行くことを決めた。シンガポールやバリ島を経由して、1932年5月に日本を訪れ、6月に帰国した。 ロサンゼルスに戻ったチャップリンは、トーキー導入で大きく変化したハリウッドに嫌気がさした。自伝では当時の心境を「まったくの混迷、将来の計画もなんにもない。ただ不安なばかりで、底知れぬ孤独にさいなまれていた」と回想している。チャップリンは引退して中国に移住することも考えたが、1932年7月にポーレット・ゴダードと出会ったことで孤独感が解消され、二人はすぐに親密な関係を築いた。しかし、チャップリンはなかなか次回作に取りかかろうとはせず、旅行記『コメディアンが見た世界』の執筆に集中した。チャップリンは世界旅行をして以来、恐慌後の世界情勢に関心を持つようになった。実際にチャップリンは、経済問題に関する論文「経済解決論」を執筆したり、ニューディール政策の熱熱な支持者として、1933年に全国産業復興法を支持するラジオ番組に出演したりしている。アメリカの労働状況の悪化はチャップリンを悩ませ、機械化が失業率を高めるのではないかと恐れた。こうした懸念から次回作の『モダン・タイムス』が構想された。 1934年10月に『モダン・タイムス』の撮影が始まり、約10ヶ月半かけて終了した。チャップリンはトーキーで作ることを考えていたが、リハーサル中に気が変わり、前作と同様に効果音と伴奏音楽を採用し、会話シーンはほとんど使わなかった。しかし、小さな放浪者がデタラメ語で「ティティナ」を歌うシーンで、チャップリンは初めて映画で肉声を披露した。大野は、この作品を「機械文明に抵抗して個人の幸福を求める物語」としており、『キッド』以来の政治的言及と社会的リアリズムが取り入れられた。チャップリンはこの問題を重視しないようにしたにもかかわらず、こうした側面が多くのマスコミの注目を引き付けた。作品は1936年2月に公開されたが、一部の大衆観客は政治的要素を嫌ったため、アメリカでの興行収入は前作の半分にも満たない150万ドルにとどまり、評価も賛否両論となった。それでも現代ではチャップリンの最も優れた長編映画のひとつと見なされている。 『モダン・タイムス』の公開直後、チャップリンはポーレットとともにアジア旅行に出発し、香港や日本などを訪問した。チャップリンとポーレットはお互いの関係について言及することはなく、正式な夫婦であったかどうかは明らかにしていない。その後、チャップリンは旅行中の1936年に広東で結婚したことを明らかにした。ポーレットは『モダン・タイムス』と次回作の『独裁者』でヒロイン役を演じたが、二人はそれぞれの仕事に重点を置いていたため、お互いの気持ちは離れていった。1942年にメキシコで二人の離婚が成立したが、その後もお互いの関係は良好だった。
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