ヴォンメルスハウゼンのマリア礼拝堂
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「バート・エントバッハ」の記事における「ヴォンメルスハウゼンのマリア礼拝堂」の解説
ヴォンメルスハウゼン地区には、その南東の入口に、建築史上特筆すべき建造物である古いプロテスタント教会(おそらく旧マリア礼拝堂)がある。ロマネスク時代に起源を持つこの礼拝堂は、13世紀に初期ゴシック様式で改築または修復がなされた。この礼拝堂は、それ以後、現在までほとんど改造の手が加えられていない、文化史上重要な建造物である。明らかに改築されている東の破風の木材は、1269年から1274年(伐採年)のものである。この建物はさらに250年から300年古い可能性がある。建築史・考古学的調査、および修復工事により、内部空間の西側から南側の角が、古い先行建築を示唆する古い基礎の上に立っていることが判明した。これは、たとえば石の基礎の上に木造教会が建てられていた可能性を示しており、聖ボニファティウス以前のアイルランド=スコットランド系宣教師による布教時代の建物であったかもしれない。 発掘され、その存在が証明されている内部に入り込んでいた長方形の内陣を含む礼拝堂の平面は、カロリング朝時代の教会のモデルに従ったものである。それは、11世紀まで遺されていた村の教会がそうであったのと同じ、平らな天井を持つホール建築であった。この建物は、ヴォルムスの石工組合の影響下で建設された可能性があり、規模の違いこそあれ、ヴォルムスのマグヌス教会(聖アンドレアス教会)と多くの類似を示している。この地域にはヴォルムス司教が多くの権利や所領を有していた。さらにヴォンメルスハウゼンの礼拝堂は、1271年に記録されているクロフドルフの聖マルガレーテ教会と、大きさも含めてよく似ている。 この礼拝堂は、がっしりとしたモルタルの基礎の上に建てた硬砂岩の荒石の壁に化粧塗りを施した、おおむね長方形の建物である。角、窓、戸口に削った石はない。南面には創建当時の元来の様子が見られる。高い位置に2つの細く小さい窓があるが、内側は半円アーチであるのに対して外側は簡素な尖頭アーチを示しており、改築時に設けられたと見なされている。西壁にはこれよりやや大きな窓があるが、これは北壁の大変小さな窓と同様、改築時に拡張されたものである。かつての聖職者入口は、南壁の前面にあり、明らかにロマネスク様式を遺している。この入口は一旦壁でふさがれたが、修復時に再び開かれた。現在は礼拝堂への入口になっている。かつて平信徒の入口であった主玄関は北側の、やはり後に拡大された長方形の窓の下にある。礼拝堂の東側に横長の長方形をした内陣がある。ここは18世紀の初めに開かれ、解放部は壁でふさがれた。 本堂内部は、幅約 6.95 m、長さ 10.15 m で、壁の厚さは約 1.20 m である。建築の基本計画は、1フィート平均 33 cm で設計されている。すべての計画は7という数字に関わる独自の象徴性を示している。内部は、平天井のホール建築であり、最初期の2階席が総合的な改築がなされたことを示している。この礼拝堂は、鐘楼として屋根の上の小塔を有している。この地域の他の教会のような内陣塔は有していない。この点では、この礼拝堂の建築様式は、この周辺ではユニークなものである。 この礼拝堂は奇跡を起こす泉の上に建てられたという伝説がある。村の一番深い位置にあるその立地がその証とされた。この建物はマリア礼拝堂として宗教改革前には巡礼教会ともなっていた。 1965年に新しい教会が完成した後、この民間団体が所有していた建築は、修復しないという条件付きで個人の所有に売却された。この建物は老朽化が進行し、取り壊しの危機が迫っていた。郡は何度も建物を保護する措置の代執行を行った。ヘッセン州文化財保護局は、1988年に「傑出した文化財」の収用を勧告した。長い議論の末、郡は1994年10月にこの建物を受領し、建築史上の調査が行われ、包括的な修復がなされた。2000年5月7日に「旧礼拝堂」は式典とともに再び公開された。これ以来、マールブルク=ビーデンコプフ郡は「旧礼拝堂」の管理者であり、教会組織はこの建物の、特に教会の祭事への運用と利用を担っている。
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