ヴィクトリア女王との関係
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「ウィリアム・グラッドストン」の記事における「ヴィクトリア女王との関係」の解説
グラッドストンはヴィクトリア朝の首相たちの中でもパーマストン子爵と並んでヴィクトリア女王から最も嫌われた首相である。 ヴィクトリア女王とグラッドストンの関係は、第一次グラッドストン内閣の時からギクシャクしていた。王配アルバートの薨去以来喪に服して公務にほとんど出席していなかったヴィクトリア女王に対してグラッドストンが公務への復帰を強く要求したからである。女王は退位をちらつかせてでも、この要請を拒否した。 女王がグラッドストンに決定的な嫌悪感を抱いたのは、第二次ディズレーリ内閣の時である。ヴィクトリアが熱烈に支持していたディズレーリの帝国主義外交や露土戦争をめぐる親トルコ・反ロシア外交をグラッドストンが徹底的に批判したためである。この頃女王は長女ヴィッキーへ宛てた手紙の中で「グラッドストン氏は狂人のように進撃しています。私は代議士の中で、これほど愛国心が欠如し、不謹慎な人物を他に知りません。」という激しい憎しみを露わにしている。 グラッドストンには君主は象徴としてのみ政体の根幹にあるべきという持論があり、とりわけディズレーリ政権がヴィクトリア女王を政治の場に引っ張り出すことを憂慮していた。ただしグラッドストンは決して君主制廃止論者ではない。「でしゃばりの君主」の出現によって君主制廃止に向かうのでは、という懸念からそういう主張をしていたのである。彼は「以前の私なら、この地の君主制は幾百年も続いていくと確信できたが、私のその自信も前内閣が君主を政治外交の第一線に引きずりまわしたことで揺らぎつつある」と語っている。 64年間イギリス政界で働いてきたグラッドストンの引退にあたって女王は、国家への貢献の労をねぎらうような言葉は何もかけなかった。グラッドストンは55年前のシチリアでロバに乗った時のことを思い出し、「私は数十時間もロバの背中で揺られていた。ロバは私に不都合なことは何もしなかったし、私のために長時間仕事をしてくれた。だが何故か私はそのロバに何の好感も持つことができなかった。この時の私とロバの関係が、女王と私の関係である」と語った。
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ヴィクトリア女王との関係
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「ベンジャミン・ディズレーリ」の記事における「ヴィクトリア女王との関係」の解説
ディズレーリはヴィクトリア朝の長い歴史の中で数多く輩出された首相たちの中でも最もヴィクトリア女王に寵愛された首相である。 ディズレーリが初めてヴィクトリア女王の姿を見たのは、ヴィクトリアの戴冠式や結婚式においてであった。だがその時のディズレーリは一介の庶民院議員に過ぎず、ディズレーリの方は大きな印象を受けても、ヴィクトリアの方から特段注目されることはなかった。そのディズレーリがヴィクトリアから最初に注目されたのは嫌悪感によってであった。それはピール内閣の時のことである。ヴィクトリアの夫アルバートは自由貿易主義者であり、そのため女王夫妻はピール首相の自由貿易改革を支援していたが、そこに「ヤング・イングランド」のディズレーリが保護貿易主義を掲げてピールを徹底的に攻撃したからである。ディズレーリの盟友ジョージ・ベンティンク卿に至っては「ドイツ人の王室がピール派と結託してイギリスの農業利益をドイツに売り飛ばそうとしている」などと王室を侮辱する演説まで行った。そうした保護貿易運動の先頭に立っていたディズレーリに女王が嫌悪感を持つのは当然のことだった。 ヴィクトリアのディズレーリへの心証が若干良くなったのは第一次ダービー伯爵内閣の時のことである。大蔵大臣として入閣したディズレーリの報告書が小説的だったことが、ヴィクトリアの注目を惹いたのである。この内閣の時にディズレーリを晩餐にまねいたヴィクトリアは、その時の印象を「風貌は典型的なユダヤ人風、青白い顔に黒い目とまつ毛、黒い巻き毛の髪、その表情は不快感を覚えるが、話してみるとそうでもなかった」と日記に書いている。この頃には保守党の保護貿易主義も身をひそめていた。だが夫アルバートはなおも保守党やディズレーリに嫌悪感をもっていたため、ヴィクトリアの不信も完全には消えなかった。 大きな変化が生じたのは1861年のアルバートの薨去だった。ディズレーリがアルバート顕彰の先頭に立ち、またアルバートの人格を褒め称えた演説を行ったことがヴィクトリアの心を捉えた。1866年の第三次ダービー伯爵内閣の頃にはヴィクトリアは完全にディズレーリに好感を寄せるようになっていた。ダービー伯爵の辞任でディズレーリが後任の首相になると親密さは増し、1868年春頃からヴィクトリアは自らが摘んだ花束をディズレーリへ送り、ディズレーリはお礼に自分の小説をヴィクトリアへ送るという関係になった。第二次ディズレーリ内閣で二人の親密さは頂点に達した。ディズレーリはしばしばヴィクトリア女王を「妖精」と呼ぶようになった。 二人の親密さの背景について、生後間もなく父ケント公を失ったヴィクトリアの父性コンプレックスと「母との疎外感が強く、生涯を通じて母の愛を補う女性を求めていた」(ブレイク男爵) ディズレーリの母性コンプレックスが結び付いたのではないかとする説がある。 グラッドストンの伝記を書いた神川信彦は、ディズレーリの「女はみな虚栄心をもつ。男の中には虚栄心を全く持たない者もいるが、虚栄心をもった男の虚栄心は、女の虚栄心では及びもつかないほど激しい。」という言葉を引用し、その「巨大な男の虚栄心」を持つディズレーリにとって、ヴィクトリアの「小さな女の虚栄心」など簡単に支配できたと主張している。 ヴィクトリアがナポレオン3世にも好感を寄せていたことから、リットン・ストレイチーは、ヴィクトリアはディズレーリの中にもナポレオン3世と似たもの、山師的・魔術的魅力を見たのだろうと主張している。 二人は、小さな島国を司令塔に南アフリカから極東までまたがる世界最大の大帝国に素朴な誇りを持っている点も共通していた。ヴィクトリアは、ロマンチックに仕立てるのがうまいディズレーリから帝国の状況について報告される時、自分が全能の神であることを認識できたという。
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