アルバートの薨去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 04:41 UTC 版)
「ヴィクトリア (イギリス女王)」の記事における「アルバートの薨去」の解説
アルバートは1857年に議会から王配殿下(Prince Consort)の称号を受けていたが、1850年代後半から徐々に健康を害するようになっていた。若い頃には美男だった外見もいつしか髪が薄くなり、引き締まっていた身体もすっかり肥満していた。 ヴィクトリアによると夫妻が溺愛していた自慢の長女ヴィッキーが1858年にプロイセン王子フリードリヒに嫁いでからアルバートの元気がなくなったという。夫妻が愚鈍と評価していた皇太子バーティの不良行為や問題行動にもアルバートは随分頭を悩まされ、胃痛がひどくなり、リューマチも患うようになった。 1861年11月22日にアルバートはヴィクトリアが止めるのも聞かず、豪雨の中サンドハースト王立陸軍士官学校の新校舎竣工式に出席し、続けてケンブリッジ大学で校則破りを繰り返す皇太子に説教するためにケンブリッジを訪問し、体調を悪化させた。12月に入ると食事もほとんど取れないほどに衰弱した。そうした中でもアルバートは最期の力を振り絞ってトレント号事件をめぐってのパーマストン子爵の対米強硬姿勢を穏健化させて英米戦争を回避することに尽力した。 侍従医は特に気になる症状はないとしており、ヴィクトリアは侍従医を全面的に信頼していたので、首相パーマストン子爵が他の医者に見せることを提案しても拒否した。だがアルバートの病状は悪化する一方で12月11日にはヴィクトリアも他の医師に診せることを承諾した。召集されたワトソン医師はすでに手遅れの腸チフスと診断した。 12月13日午後遅く、アルバートは危篤状態に陥り、ヴィクトリア女王はじめ家族が集められた。その日の晩ヴィクトリアはヒステリック状態に陥り、落涙と祈祷を繰り返していた。ヴィクトリアがアルバートの枕元に近づくと彼女の存在に気付いたアルバートは彼女にキスをして手を握り、弱弱しい声ながら「gutes Fraüchen(私の可愛い小さな奥さん)」と声をかけたという。翌14日朝にはアルバートは回復に向かっているように見えたが、正午までにはほとんど動けなくなった。アルバートの息が荒くなるとヴィクトリアは彼に駆け寄り、「Es ist Fraüchen(貴方の小さな奥さんですよ)」と囁き、彼とキスをしたという。 ヴィクトリア女王ら家族が見守る中、アルバートは42歳にして薨去した。ヴィクトリアは冷たくなった夫の手をしばらく握り続けていたが、やがて部屋を飛び出して泣き崩れたという。 ヴィクトリアは叔父ベルギー王レオポルドに宛てて「生後8カ月で父を亡くした赤ん坊は、42歳で打ちひしがれた未亡人となってしまいました。私の幸せな人生は終わりました。私がまだ生きなければならないとしたら、それは父を失った哀れな子らのため、彼を喪うことで全てを失った我が国のため、また私だけが知る彼の希望を実現するためです。彼は私の傍らにいつもいてくれるのです。」と書いている。
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