レオ12世 (ローマ教皇)とは? わかりやすく解説

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レオ12世 (ローマ教皇)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/16 13:26 UTC 版)

レオ12世
第252代 ローマ教皇
教皇就任 1823年9月28日
教皇離任 1829年2月10日
先代 ピウス7世
次代 ピウス8世
司祭叙階 1783年
個人情報
出生 (1760-08-22) 1760年8月22日
教皇領
ジェンガ
死去 (1829-02-10) 1829年2月10日(68歳没)
教皇領
ローマ
教皇宮殿
紋章
その他のレオ
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レオ12世(Leo XII, 1760年8月22日 - 1829年2月10日[1])は、ローマ教皇(在位1823年9月28日 - 1829年2月10日)、カトリック教会司祭。本名、アンニーバレ・セルマッテイ・デッラ・ジェンガ (Annibale Sermattei della Genga) 。外交家としての手腕は高かったが、教皇領内で専制政治を行って民心を失うことになった。

生涯

1760年、イタリアの貴族ジェンガ家英語版に生まれる。ジェンガ家は、現在のアンコーナ県にあるジェンガを基盤とする一族である。デッラ・ジェンガの出生地ははっきりとしないが、一般的にはジェンガ、もしくはスポレートで生まれたとされている。

1783年司祭叙階された。教皇ピウス6世のもとで働くようになると、ティルスの名義司教を皮切りに、ケルンパリの教皇使節を歴任した。その中で彼は外交官としてナポレオンや各国の宮廷との折衝に努めた。

1820年ピウス7世によって枢機卿にあげられ、1823年コンクラーヴェにおいて63歳で教皇に選出された。この時フランスの勢力下にある枢機卿たちの激しい反対があったという。

教皇としてのレオ12世は、エルコール・コンサルヴィ枢機卿を右腕として活発な外交を展開、非カトリック諸国とも友好関係を築くことに成功したが、教皇領内において住民に対する監視システムを作ったり、ユダヤ人ゲットーに押し込めるなどの政策を実行したため、経済が停滞し、教皇領の民心を失っていった。彼はまたカルボナリフリーメイソンのような秘密結社を徹底的に非難した。

1829年2月10日に教皇が亡くなると、教皇領の住民は露骨に喜んだといわれている。

脚注




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