大司教・枢機卿として
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「ピエトロ・グラヴィーナ」の記事における「大司教・枢機卿として」の解説
1794年9月12日、ニカイア大司教区(イタリア語版)の大司教に選出された。しかし当時はナポレオン・ボナパルトがフランスで台頭しており、フランス軍の侵略を危惧したグラヴィーナは後にレオ12世としてローマ教皇となるアンニーバレ・セルマッテイ・デッラ・ジェンガなどともにコンスタンツ、次いでハプスブルク家が治めるミュンヘンなどに避難した。また、教皇政府復活後もスペインやポルトガルに渡って使節として活動し、故郷シチリアに戻るべくマドリードを離れたのはウィーン体制が確立してからの1817年であった。 1816年3月8日、ピウス7世はグラヴィーナを枢機卿に昇格した。またフェルディナンド1世の働き掛けもあり1816年9月23日にはパレルモ大司教区(イタリア語版)の大司教となった。まだこの頃はグラヴィーナはマドリードで使節として活躍しており、大司教としてパレルモに戻ったのは1818年の春であった。
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