大司教就任とは? わかりやすく解説

大司教就任

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/11 14:35 UTC 版)

リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の記事における「大司教就任」の解説

1511年4月27日トリーア大司教ヤコブ2世ケルン没したヤコブ2世亡くなる前に次の大司教リヒャルト指名しており、6月14日行われた聖堂参事会による大司教選考では満場一致リヒャルト選出された。しかしこの決定ローマ教皇承認を得るには、約1年要することになったというのもイタリア戦争中のためにローマに行くことが困難で、使節インスブルック経由してトリーアローマ往復教皇承認状を持ち帰ってきたのは1512年4月のことだった。 この年神聖ローマ帝国議会はちょうトリーア行われることになっており、リヒャルトの大司教就任式と帝国議会開催で、トリーアお祭りさわぎでごった返していた。議会臨席するために皇帝マクシミリアン1世トリーアに長滞在をしていた。 大聖堂行われた復活祭一般的には春に行われる)の響宴の席で、マクシミリアン1世が、トリーア大聖堂保管されているという秘蔵聖遺物見たいと言い出した。これはイエス・キリストが身に纏っていたという衣服(Heiliger Rock)で、1196年以降一度公開されたことがないのだった。 この聖遺物一般に公開することになったのだが、その結果としてトリーアには更に見物客押し寄せ市内はひどい混雑になったそのうち、もしもここで疫病発生したとんでもないことになると言い出した者がいて、帝国議会開催地を急遽ケルンに移すという事になったリヒャルトトリーア大司教就任式復活祭50日後の聖霊降臨日祝日行われることになっていた。就任式にはシュトラスブルクヴォルムス司教立会いマインツ大司教の手リヒャルト大司教位が授けられた。しかしマクシミリアン1世がいなかったので、トリーア大司教与えられる選帝侯位の承認遅れてしまった。皇帝リヒャルトトリーア選帝侯就任承認したのは8月12日のことだった。

※この「大司教就任」の解説は、「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の解説の一部です。
「大司教就任」を含む「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の記事については、「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の概要を参照ください。

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