大司教就任
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「リヒャルト・フォン・グライフェンクラウ」の記事における「大司教就任」の解説
1511年4月27日、トリーア大司教のヤコブ2世がケルンで没した。ヤコブ2世は亡くなる前に次の大司教にリヒャルトを指名しており、6月14日に行われた聖堂参事会による大司教の選考では満場一致でリヒャルトが選出された。しかしこの決定にローマ教皇の承認を得るには、約1年を要することになった。というのもイタリア戦争中のためにローマに行くことが困難で、使節はインスブルックを経由してトリーアとローマを往復、教皇の承認状を持ち帰ってきたのは1512年4月のことだった。 この年の神聖ローマ帝国議会はちょうどトリーアで行われることになっており、リヒャルトの大司教就任式と帝国議会の開催で、トリーアはお祭りさわぎでごった返していた。議会に臨席するために皇帝マクシミリアン1世もトリーアに長滞在をしていた。 大聖堂で行われた復活祭(一般的には春に行われる)の響宴の席で、マクシミリアン1世が、トリーア大聖堂に保管されているという秘蔵の聖遺物を見たいと言い出した。これはイエス・キリストが身に纏っていたという衣服(Heiliger Rock)で、1196年以降、一度も公開されたことがないものだった。 この聖遺物は一般にも公開することになったのだが、その結果としてトリーアには更に見物客が押し寄せ、市内はひどい混雑になった。そのうち、もしもここで疫病が発生したらとんでもないことになると言い出した者がいて、帝国議会の開催地を急遽ケルンに移すという事態になった。 リヒャルトのトリーア大司教就任式は復活祭の50日後の聖霊降臨日の祝日に行われることになっていた。就任式にはシュトラスブルクとヴォルムスの司教が立会い、マインツ大司教の手でリヒャルトに大司教位が授けられた。しかしマクシミリアン1世がいなかったので、トリーア大司教に与えられる選帝侯位の承認は遅れてしまった。皇帝がリヒャルトのトリーア選帝侯就任を承認したのは8月12日のことだった。
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