大司空に就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 06:48 UTC 版)
始建国元年(9年)1月、王莽が新の皇帝として即位すると、哀章が献上した銅匱に、王邑も名前が記されていたため、大司空に任命され、隆新公に封じられた。 天鳳元年(14年)、王莽の命で王邑は太傅平晏と共に洛陽に派遣され、王莽のために宗廟・社稷・郊兆の建設予定地を選定した。天鳳3年(16年)2月、大地震と大雪が発生したため、王邑は骸骨を乞うたが、王莽は辞職を認めなかった。地皇元年(20年)7月、王莽が長安の南に祖廟を建築しようとすると、王邑は大司徒王尋と共に符節を与えられ、建築工事を指揮監督している。地皇3年(22年)冬、王莽の命令により、大司徒王尋は10数万の軍勢を率いて洛陽に駐屯し、大司馬董忠は軍の訓練に従事することになったため、王邑が三公全ての職を兼務している。
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