大司寇時代とは? わかりやすく解説

大司寇時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:18 UTC 版)

孔子」の記事における「大司寇時代」の解説

紀元前501年孔子52歳のとき定公によって中都の宰に取り立てられた。その翌年紀元前500年春、定公は斉の景公和議をし、「夾谷の会」とよばれる会見を行う。このとき斉側から申し出た舞楽隊は矛や太刀小道具持っていたので、孔子舞楽の手足を切らせた。「春秋伝」によれば、これはかの有名な宰相晏子による計略で、それを孔子見破ったといわれる景公おののき、義において及ばないことを知った。この功績孔子最高裁判官である大司寇に就任し、かつ外交官にもなった。孔子は晋との長年の「北方同盟」から脱退した三桓氏これまで晋の権力背景君主圧迫することを繰り返してきたからで、それを禁絶するためだった紀元前498年弟子顔回以外全員取った少正卯誅殺する。 紀元前498年孔子弟子のなかで武力すぐれた子路季孫氏推薦したうえで、三桓氏本城城壁破壊する計画実行移し定公すすめて軍を進めたが、落とせなかった。これは、先に陽虎季孫氏反旗を翻したように、曲阜国相として居住する三桓氏対し地方にある三桓氏居城にいる有力家臣その本城に拠って下剋上起こす傾向強かったため、この憂い取り除くためのものとして孔子定公ならびに三桓氏勧めたもので、このため君主権拡大できる定公のみならず三桓氏同意もいったんは得ることができた。しかし、叔孫氏本城城壁破壊できたものの、家臣抵抗にあっててこずり、孟孫氏本城では家臣同意せずに城壁拠って抵抗続けたうえ、主君である孟孫氏もこれに納得して反対の立場回ったために失敗した

※この「大司寇時代」の解説は、「孔子」の解説の一部です。
「大司寇時代」を含む「孔子」の記事については、「孔子」の概要を参照ください。

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