ユダヤ人の識別・規制強化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「ユダヤ人の識別・規制強化」の解説
それまでカトリック教会はユダヤ人への暴力による改宗を禁じていたが、1215年の第4ラテラノ会議でユダヤ人がキリスト教徒と性的関係を持てないように衣服に識別徴章をつけさせ、また法外な利息の取り立てなどユダヤ金融業を規制した。第4ラテラノ会議ではキリスト教徒に高利貸し業を禁止し、ユダヤ人を公職から追放し、ユダヤ人はギルドからも締め出された。 ユダヤ人をバッジ(徴章)によって識別する政策はフランスではじまり、ユダヤ章は黄色とされた。以降、違反者には罰金が課せられ、フィリップ4世はユダヤ章を有料として、財源とした。ユダヤ人の服装は1179年の第3ラテラン公会議でも規定されていたが守られていなかったため、ローマ教皇の使節は、ドイツ各地の教会に対して、キリスト教徒はユダヤ人との同席飲食の禁止、ユダヤ人の結婚式や祭儀への参加の禁止、ユダヤ人がキリスト教徒の公衆浴場や酒場への入店禁止、ユダヤ人商店で肉や食料を買うことを禁止すると厳しく命じた。 イギリスではヘンリー3世(在位:1216年 - 1272年)治世下においてユダヤ人とキリスト教徒の商取引と交際が禁止され、ユダヤ人はイエローバッジの着用を命じられた。20世紀のナチスドイツもイエローバッジを強制したが、これらはその先駆けであった。また、イングランドでは二枚の布を胸に縫い付けることが義務化された。 税を滞納して完済しないユダヤ人の財産は王室に没収され、ユダヤ嫌いだった修道僧やカオール人高利貸しさえもユダヤ人の過酷な扱いを憐れんだ。ヘンリー3世は、1232年にドムス・コンウェルソーム(改宗者の家)を建設し、ユダヤ人に改宗を促した。 ドイツでは、識別は頭巾や円錐形の黄色や赤色の帽子でなされ、ポーランドでも緑の帽子で識別された。1225年の『ザクセン法鑑』ではユダヤ人はまだ自由人であり、武器の携帯も許可されていたが、1275年の『シュヴァーベン法鑑』ではユダヤ人は厳しく制限された。 スペインとイタリアではユダヤ人に円形の章(ルエル)が義務づけられた。 フランスの獅子王ルイ8世は1223年、ユダヤ人は王に帰属するとの勅令を王領地以外のフランス全土に拡大した。ルイ8世は1226年にアルビジョア十字軍を引き継ぎ、1229年にトゥールーズ伯レーモン7世を破り、パリ条約によりレーモン領東部が王領化された。南フランスには異端審問裁判所が設置された。第6・7回アルビジョア十字軍はフランス西部で推定2500人のユダヤ人を殺害した。 続く聖王ルイ9世(在位:1226年 - 1270年)はユダヤ人の改宗政策を行った。1230年のムランの勅令ではユダヤ人の借用証書は法的価値を有しないとされ、ユダヤ人の金貸し業者は農民や職人などの庶民に限られるようになった。大口の取引はロンバルディア人やカオール人が行うようになった。 1232年、教皇グレゴリウス9世はフランス王にユダヤ人虐殺の首謀者の処刑と略奪した財産の返還を求めた。一方、勅書で教皇直属の異端審問法廷を設置して、地方の司教や世俗権力はドミニコ会とフランチェスコ会士の審問官に協力することが命じられた。自白、または2名の証言のみで有罪判決が可能で、拷問が公認され、密告が奨励された。この勅書と、アルビジョア十字軍でルイ8世が南フランスを制圧した1229年のトゥールーズ教会会議によって、異端審問制度が確立した。 その後フランスでは1361年にはジャン2世がユダヤ章を赤と白の2色に変更し、また旅行中はバッジを着用しなくてもよいと若干緩和された。
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