ユダヤ人の逃亡を幇助
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 17:10 UTC 版)
「ジーノ・バルタリ」の記事における「ユダヤ人の逃亡を幇助」の解説
1940年のシーズンを最後に事実上引退状態を強いられたバルタリはその間、強制収容所に収監されているユダヤ系人を救うべく、カトリック教会との接点を多く持ったり、はたまたピウス12世と接見したり、果ては大主教やフランシスコ会にも救いの手を求めていた。このあたりの話については1969年にインタビューを受けた際に言明している。しかしこの後の話はバルタリの生前に語られることはなく、2000年にバルタリの死後、息子たちが遺言代わりに残していた当時のバルタリの日記を公表したことで漸く公にされたものであった。 ルッカ修道院らはかくまっていたユダヤ系人たちの国外逃亡を図るべく、身柄引き渡しのための偽造文書を作成する秘密工場を設けた。しかしそれには身分を証明する写真も必要であった。そこで同修道院らは、バルタリにお願いしてトレーニングと装わせて、ファシストにばれぬよう、別の場所に隠してあった写真が入った募金箱を持ち出させた。バルタリは以前よりレジスタンス運動に声明文を送るなどして強くファシストに対する抵抗者たちに対して支援を行っていた。そのため、ファシストから格好の標的とされたが、一方で自転車選手として著名であるバルタリを迫害するようなことをすれば、それに乗じて抵抗者たちが大暴動を起こしかねないということをファシストは強く恐れていたため、前述したバルタリの慈恵活動については、当初は見てみぬ振りという形を取っていた。ルッカ修道院らは、ファシストに強く反発していたバルタリの名声を借りたわけである。 しかし、ドイツ・ナチスがイタリア国内に駐留するようになると一層ユダヤ系人追跡への動きが強くなった。バルタリはフィレンツェでナチスから度重なる尋問を受けることになった。その上でユダヤ系人に対する慈恵活動をやめるよう諭したが、バルタリは怯まなかった。なおも表向きは慈恵活動を行いながら、一方では逃亡作戦に加担していたバルタリは、ナチスやファシストのユダヤ系人迫害の動きがさらに強まる中、1943年にユダヤ系人を連れて改造したワゴン車でスイスアルプス方面へ向け逃亡を企てた。その間、たびたび検問を受けるとバルタリは、トレーニング用品を積んでいるいうことにして逃れていたという。
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