ユダヤ人への課税と保護政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:19 UTC 版)
「反ユダヤ主義」の記事における「ユダヤ人への課税と保護政策」の解説
神聖ローマ皇帝はユダヤ人への徴税権を担保にして種々の取引を行った。1308年、ルクセンブルク家の皇帝ハインリヒ7世は、マインツ大司教に皇帝選挙で当選したらユダヤ人税を贈与すると約束した。ルードヴィヒ4世は「汝らは身も持ち物も全て我らのものなり。我らは望むまま、思いのままに汝らを処遇する」とユダヤ人を皇帝の財産であると述べた。封建制下で授封や贈与によって皇帝の収入が減るほど、ユダヤ人からの税収入は重視されたが、皇帝権が動揺するとユダヤ人への徴税権は次第に諸侯や司教、都市の手に移っていった。ユダヤ人は共同体として支払う税、個人で支払う税、滞在許可、結婚許可税など30種類の納税義務を負っていた。 14世紀半ばには各地でユダヤ人保護政策がとられた。1352年にドイツのシュパイヤーではユダヤ人を呼び戻すことが叫ばれ、『マイセン法書』ではユダヤ人のシナゴーグと墓地が保護された。1369年から1394年の間にはマインツ、フランクフルトなどでユダヤ人医師が厚遇されていた。 百年戦争中の1356年のポワティエの戦いでイングランドに敗戦したフランスはジャン2世善良王をロンドンへ捕囚され、身代金を要求された。また1358年にはフランスの農村でジャクリーの乱が起きた。1361年には王の身代金も払えないほどフランスの財政が破綻したため、王太子シャルルは、人頭税と引き換えにユダヤ人の家屋と地所の所有や高利貸しでの87%という高利も許可し、王の遠戚ルイ・デタンプをユダヤ人護衛官に就任させるなど厚待遇の条件でユダヤ人を呼び戻した。以降20年間、フランスのユダヤ人は平穏な生活を取り戻すが、かつての親しみのある金貸し業者から、忌み嫌われる金融ブローカーと見なされるようになっていった。 1370年にはブリュッセルの聖体冒涜事件でユダヤ人20人が火刑に処された。 カルトジオ会修道士ザクセンのルードルフの『キリスト伝』(1374年)では、ユダヤ人共同体から追放された者に唾を吐きかけるのがユダヤの習慣であるが、イエスも唾を吐きかけられ、また髭や髪を引っ張られ「悪魔の子」であるユダヤの民は磔刑を求めたと解説し、ユダヤ人は神の報いとして世界各地に散らばり隷属状態に置かれていると説教した。 1378年にキリスト教に改宗したユダヤ人によって、非改宗ユダヤ人が糾弾されるようになると、1380年代にフランスで再び大規模なユダヤ襲撃が起こり、1380年、1382年、パリとイル=ド=フランスで暴動が多発、ユダヤ人は証書や質草を略奪された。シャルル6世はユダヤ人保護に成功するが、ユダヤ人への課税が重くなる一方で、ユダヤ人の特権も拡大していった。 ドイツでもユダヤ人保護政策が続いていたが、1384年にはアウクスブルクとニュルンベルクでユダヤ人が収監され、莫大な身代金で釈放された。1385年にはドイツ38の都市代表がウルム会議で、ユダヤ人の債権を全面的に破棄して、キリスト教徒の債務者を解放した。1388年にはシュトラスブルクでユダヤ人が追放された。
※この「ユダヤ人への課税と保護政策」の解説は、「反ユダヤ主義」の解説の一部です。
「ユダヤ人への課税と保護政策」を含む「反ユダヤ主義」の記事については、「反ユダヤ主義」の概要を参照ください。
- ユダヤ人への課税と保護政策のページへのリンク