ユダヤ人・ロマ迫害政策
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 04:31 UTC 版)
「ナチス・ドイツ」の記事における「ユダヤ人・ロマ迫害政策」の解説
政権獲得間もない頃から、公職にあったユダヤ人達はその地位を追われ始めた。またナチ党の突撃隊による1935年9月15日のニュルンベルク党大会の最中、国会でニュルンベルク法(「ドイツ人の血と尊厳の保護のための法律」と「帝国市民法」)を公布した。この中でアーリア人とユダヤ人の間の結婚や性交は禁止され、ユダヤ人の公民権は事実上否定された。この法律公布後、民間レベルのユダヤ人迫害も増していった。 各地の商店に「ユダヤ人お断り」の看板が立ち、ベンチはアーリア人用とユダヤ人用に分けられた。ユダヤ人企業は経済省が制定した安価な値段でアーリア人に買収され、ユダヤ人医師はユダヤ人以外の診察を禁じられ、ユダヤ人弁護士はすべて活動禁止となった。 またニュルンベルク法では対象とされなかったが、ロマ(ジプシー)に対する迫害もはじまり、1935年にはフランクフルト市がジプシー用の収容所を設置。1936年にはドイツ内務省が「ジプシーの災禍と戦うためのガイドライン」を制定し、以降ジプシーの指紋と写真を撮ることと定めた。1937年には親衛隊も「ジプシーの脅威と戦うための全国センター」をもうけて同センターにジプシーの定義をするよう指示を出した。1935年にニュルンベルク法が制定されたことによって、ユダヤ人はドイツ国内における市民権を否定され公職から追放された。また四カ年計画全権となったゲーリングの指導の下、アーリア化と呼ばれるユダヤ人からの経済収奪が実行された。ユダヤ人、ユダヤ経営とされた企業の資産は没収され、ドイツ人達に引き渡された。 1938年7月5日にはアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの発案で、スイスのエヴィアンで32カ国によるドイツから逃れてくるユダヤ人難民保護の件が話し合われた(エヴィアン会議)が、各国はすべてユダヤ人の自国への受け入れには後ろ向きであった。これについてアドルフ・ヒトラーは「こうした犯罪者ども(ユダヤ人)に深い悲しみを寄せる諸国はせめてその同情を実際的な援助に向けてほしい。そうした諸国にこの犯罪者どもをくれてやる。お望みとあれば豪華客船で送ってやろう。」と述べ、ユダヤ人に同情する言を述べながら引き取ろうとしない欧米各国の偽善的態度を批判した。 1938年11月9日夜から10日未明にかけてはナチス党員と突撃隊がドイツ全土のユダヤ人住宅、商店、シナゴーグなどを襲撃、放火した水晶の夜事件が起き、これを機にユダヤ人に対する組織的な迫害政策がさらに本格化していった。
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