モフェットと航空局
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/29 16:07 UTC 版)
「ジョン・ヘンリー・タワーズ」の記事における「モフェットと航空局」の解説
第一次世界大戦終結後にしばしの平和な時代が訪れたころ、タワーズは海軍航空の重要性を説いて回ったり、上述の大西洋横断飛行などの実行や先駆的な開発などで事実上の海軍航空隊の第一人者的存在にはなっていた。しかし、海軍内での航空の立場はまだまだ弱かった。1919年秋、タワーズは敷設艦「アローストック(英語版)」 (USS Aroostook, CM-3) の副艦長となり、1922年冬から1923年にかけては駆逐艦「マグフォード(英語版)」 (USS Mugford, DD-105) の艦長を務める。そして、「アローストック」乗り組み時代の1920年夏、演習で「アローストック」と顔合わせした戦艦の艦長によって、アメリカ海軍での海軍航空の立場が大きく動き出そうとしていた。その艦長が、「アメリカ海軍航空隊の父」モフェットである。モフェットは戦艦「ミシシッピ」艦長としてサンディエゴ沖で演習に参加していたとき、「アローストック」指揮下の水上機が弾着観測を行ない、その働きによって訓練が上手く行った。モフェットはこの一件で、航空観測の重要性を実感したのである。 1921年9月、海軍省内に航空課を格上げする形で航空局が創設され、3月以来航空課長で少将に昇進したモフェットが初代局長となる。しかし、この段階ではタワーズは航空局とはあまり関わっておらず、「アローストック」や「マグフォード」での勤務、ペンサコーラの海軍飛行学校副校長を経て1923年3月から1925年9月にかけて、ロンドン、パリ、ローマ、ハーグおよびベルリンのアメリカ大使館付駐在武官を歴任する。この二度目の駐在武官時代、タワーズはセンピル教育団の一人と話す機会があったが、その者曰く、「日本人の練習生は皆下手だ。とてもいいパイロットにはなれない」。駐在武官の勤めを終えて帰国したタワーズは、ここで航空局に配属される。配属早々、1925年9月3日に墜落した海軍飛行船「シェナンドー」の事故調査委員会メンバーとなった。 翌1926年、中佐となっていたタワーズは空母「ラングレー」の副長に就任。モフェットの腹積もりでは、タワーズを本来は艦長に据えたかったが、中佐は大型艦艦長の役職ではなかった。またこの年、モフェットは潜水艦部門から一人の大佐を航空に引っ張ってくる。この大佐がアーネスト・キング(アナポリス1901年組)で、巡洋艦艦長を希望していたが空きがなかったことと、当時の海軍航空部門でもっとも高位の士官だったのが中佐のタワーズだったこともあり、モフェットの勧めで水上機母艦「ライト(英語版)」 (USS Wright, AV-1) 艦長に就任し、ペンサコーラに赴いて航空免許の取得を行った。ちなみに、当時の「ライト」副長はエリソンだった。「ラングレー」副長時代のタワーズは、アメリカ海軍航空戦隊の最初の司令官であるジョゼフ・M・リーヴス(英語版)大佐(アナポリス1894年組)の下で空母運用の研究に取り組み、搭載機の増加や給油システムの改善に取り組んだ。また、タワーズはこの「ラングレー」副長時代に初めて一般の航空機の操縦を手がけ、着艦をこなせるようになった。タワーズは翌1927年1月に「ラングレー」艦長に昇格し、1928年8月まで務める。その間の1927年12月、「ラングレー」で火災事故が発生し、給油系統から艦載機に燃え移るほどの火災に対してタワーズは、乗員の総力を挙げて消火にあたり、最悪の事態を回避することに成功して「冷静かつ勇敢に火災事故に対処した」と賞賛された。なお、「ラングレー」艦長時代の1928年2月27日にエリソンが航空事故で殉職し、パイロット免許第2号保持者だったジョン・ロジャース(アナポリス1903年組)も、エリソンに先立つ2年前の1926年に事故死していたので、この時点で第3号のタワーズが海軍パイロット中の最古参者となった。
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