メンデルスゾーンとの出会いとロンドン時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/30 14:54 UTC 版)
「イグナーツ・モシェレス」の記事における「メンデルスゾーンとの出会いとロンドン時代」の解説
ウィーンでの在住期間の後、モシェレスは一連のヨーロッパ演奏旅行を行った。これは、カールスバートでの演奏を聴いたロベルト・シューマンがヴィルトゥオーゾピアニストへの道を断念したほどのセンセーションを巻き起こした。その過程で、モシェレスはロンドンにおいて特に温かい歓迎を受け、1822年にはその地で彼はロンドン音楽アカデミー(後のロイヤルアカデミー)の栄誉ある会員に認められる。その年の終わりに彼は日記に「イングランドにますます強い愛着を覚えるようになってきている」と書き記している。モシェレスはヨーロッパ中のほとんどの大都市を行きつくしていたが、1822年に初めてロンドンを訪れた際に、クレメンティやクラーマーと堅い友情の絆を結んだ。モシェレスはまた、クレメンティの弟子でもあった。 しかしながら、モシェレスは1824年にアブラハム・メンデルスゾーンより、彼の子どもであるフェリックスとファニーにレッスンをして欲しいと請われ、その頼みを承諾してベルリンに向かった。彼らに出会った際のモシェレスのコメントは以下のようであった。 見たこともないような家庭だ。15歳になるフェリックスはまさに神童である。これほどまでの才能があろうとは……もはや既に一人の成熟した芸術家といっても過言ではない。彼の姉のファニーもまた、非凡な才能に恵まれている。 その2週間後には、彼は次のように記している。 今日の午後、私はフェリックスに初めてのレッスンを行ったのだが……自分の隣に座る彼が、生徒ではなく一芸術家であるという事実に、しばらく呆然としてしまった。 こうして始まった極めて親密な付き合いは、メンデルスゾーンが1847年に没するまで続いた。メンデルスゾーンが1829年に初めてロンドンを訪問するきっかけとなったのもモシェレスであった。メンデルスゾーンがフェリックスの現地での世話をモシェレスに頼んでおり、モシェレスも抜かりなく準備を整えた。ロンドンにおいて、モシェレスは並みの有名演奏家やロスチャイルド家の夜会の音楽監督などではなく、ジョージ・スマートとロイヤル・フィルハーモニック協会のかけがえのない助言者となっていた。そこで彼は、演奏旅行中に出会った欧州の才能ある音楽家たちを彼らに推薦していた。1825年にスマート自身が、協会にふさわしい新しい音楽と音楽家を求めてヨーロッパを巡った折には、モシェレスは連絡先と推薦状を一覧にして彼に渡しており、その中にはベートーヴェンやメンデルスゾーンも含まれていた。プラハではモシェレスの兄弟がスマートの案内役となった。スマートはベルリンを訪れた際に、メンデルスゾーン家のフェリックスとファニーに感銘を受けており、これがついにはメンデルスゾーンが招待され協会で指揮をする1829年の訪英に繋がる。 1827年、モシェレスはフィルハーモニー協会と衰えゆくベートーヴェンとを結ぶ活動をしていた。彼は病に伏せるベートーヴェンに緊急の資金援助を行うため、協会に談判する中に加わった。その見返りとして、ベートーヴェンは交響曲第10番を協会のために作曲する旨提案したが、それはついに叶わなかった。 メンデルスゾーンが1829年からその死に至るまでイギリスで大いに成功を勝ち得たことには、友人であるモシェレスが大きく影響している。モシェレスは当時、音楽教師としてひっぱりだこであり、その生徒の中には富裕層や貴族の子女が数多く含まれていた。彼はまた「アルバート王子のピアニスト」となり、これは割のいい仕事であると同時に彼の社会的地位を決定付けるものだった。 モシェレスはベートーヴェンの音楽を生涯にわたって人々に紹介し続け、そのためにベートーヴェンの楽曲による多くの演奏会を開いた。1832年にはベートーヴェンの『ミサ・ソレムニス』のロンドン初演を指揮し、またA.F. シンドラー著のベートーヴェンの伝記を英訳するなどした。彼はピアノリサイタル(ピアノ曲のみで行われる演奏会)を最初期に行った人物でもある(誰が最初に行ったかということに関しては、フランツ・リストとモシェレスの間で諸説がある)。ハープシコードを、ソロリサイタル用の楽器として再び取り入れたのもモシェレスである。また彼はロンドンを含む各地でしばしばメンデルスゾーンと共演しており、バッハの複数の鍵盤楽器による協奏曲を好んで演奏した。そのような演奏会において、モシェレスとメンデルスゾーンはカデンツァの即興演奏の妙を競い合っており、そのことがまた喝采を浴びていた。三つのハープシコードのための協奏曲は、ある時はジギスモント・タールベルクを、またある時はクララ・シューマンを第三奏者に迎えて行われた。モシェレスは指揮者として登場することもしばしばあったが、それは主にベートーヴェンの楽曲の場合であった。 さらに、モシェレスは1833年にウェーバーの『プレチオーザ』による《協奏的大二重奏曲》作品87b(二台ピアノ、もしくは二台ピアノと管弦楽のための)をメンデルスゾーンと共作し、同年5月1日にロンドンで初演している。
※この「メンデルスゾーンとの出会いとロンドン時代」の解説は、「イグナーツ・モシェレス」の解説の一部です。
「メンデルスゾーンとの出会いとロンドン時代」を含む「イグナーツ・モシェレス」の記事については、「イグナーツ・モシェレス」の概要を参照ください。
- メンデルスゾーンとの出会いとロンドン時代のページへのリンク