メンデレーエフの周期表
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:33 UTC 版)
ドイツのアウグスト・ケクレは、原子量や分子量などの概念がまだしっかりとしていないことを問題視して、1860年にカールスルーエで「元素の質量測定」をテーマとした史上初の国際化学者会議を開催した。この会議に出席したロシアの教師であり化学者であったメンデレーエフはそこでイタリアのスタニズラオ・カニッツァーロが唱えた原子量を重視すべきであるという主張に影響を受けた。 メンデレーエフはロシアに帰国した後にペテルブルク大学の教授となり、1896年に化学の教科書を執筆していた際に、発見済みの数が63個にまで増えていた元素を説明する方法に悩んでいた。彼は自分の好きなカードゲームから発案して、元素名を書き込んだカードを原子量順に並べ替えることを何度も繰り返すうちにひとつの表を作り上げた。それは原子価を重視し、かつ適切に当てはめられる元素が表中に無い場所には「エカホウ素」「エカアルミニウム」「エカケイ素」(「エカ」はサンスクリット語で「1」の意味)などの仮の名をつけて元素を割り当てずに空けておくという工夫を施したものだった。この表は1870年にドイツの科学雑誌に発表された。 当初はこの彼の表の価値を認める学者はほとんどいなかった。しかし、マイヤーはこれに注目し、原子容の考え方を加えた論文を発表した。彼は原子量順の原子容を調べたところ、リチウム・ナトリウム・カリウムと並ぶアルカリ金属族に該当する元素は原子容が前後と飛びぬけて高いことを示した。メンデレーエフはマイヤーの論文も参照し、改良を加えた周期表(第二周期表)を作成した。これにはローマ数字IからVIIIで縦の分類が施され、うちI–VIIが基本的に1–2族および13–17族に対応し、VIIIには遷移元素群を入れ、また貴ガスは反映されていなかった。それぞれには2種類の亜族を設け、表の左右に振り分けて区分した。
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