メンデルスゾーン、シューマンとの交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/04 00:16 UTC 版)
「ウィリアム・スタンデール・ベネット」の記事における「メンデルスゾーン、シューマンとの交流」の解説
1836年5月に、ベネットはメンデルスゾーンのオラトリオ「聖パウロ」の初演に立ち会うべく、デュッセルドルフのライン音楽祭に向かった。滞在中、彼はグローヴ音楽辞典がベネットの最も有名な管弦楽作品と位置づける演奏会用序曲「水の精 The Naiades」の作曲に取り掛かり始めた。ベネットが帰途に着いた後、メンデルスゾーンは二人の共通の友人であるイギリスのオルガニストで作曲家であるトーマス・アトウッドに宛てて、こう書き記している。「思うに、彼こそが私が知る中で、英国のみならずここドイツにおいても最も有望な若手音楽家です。もし彼が非常に偉大な音楽家にならないのであれば、それは神の意志であって彼自身のものではないのだと確信しています。」 ベネットは初めての訪独以後、3度にわたってライプツィヒへ仕事をしに赴いている。彼はそこに1836年10月から1837年6月まで滞在し、自作の「ピアノ協奏曲第3番」のソリストを務め、また2月13日には序曲「水の精」の演奏でゲヴァントハウス管弦楽団の指揮を行った 。ロンドンへ戻るとすぐ王立音楽アカデミーの教員の職に与ることができ、1858年まで勤務することになる。彼の次のドイツでの長期滞在は1838年10月から1839年3月までであり、彼は「ピアノ協奏曲第4番」と演奏会用序曲「森の精 Woodynymphs」の演奏を行った。1843年1月から3月までの3度目の滞在ではカッセル、ドレスデン、ベルリンも訪れており、ピアノと管弦楽のための「奇想曲ホ長調 Op.22」をライプツィヒで演奏している。 ライプツィヒでは、ベネットは当時作曲家としてより批評家として知られていたロベルト・シューマンと親交を結んだ。ベネットはメンデルスゾーンに対しては当初いくらかの畏怖を抱いていたが、シューマンとの交友関係にそのような堅苦しさが付きまとうことはなかった。二人は昼には散歩で遠出をし、夜には地元の居酒屋で杯を酌み交わす中だったのである。彼らは互いに大規模なピアノ作品を献呈し合っている。1837年8月にシューマンが「交響的練習曲」をベネットに献呈したかと思えば、数週間後にはベネットからの返礼として「幻想曲 Op.16」の献呈があった。シューマンはベネットの音楽に対する熱狂を雄弁に語っていたが、一方のベネットは個人的にシューマンに尽くしこそしたものの、彼の音楽に関しては「奇異に過ぎるのではないか」と気がかりに感じていたという。
※この「メンデルスゾーン、シューマンとの交流」の解説は、「ウィリアム・スタンデール・ベネット」の解説の一部です。
「メンデルスゾーン、シューマンとの交流」を含む「ウィリアム・スタンデール・ベネット」の記事については、「ウィリアム・スタンデール・ベネット」の概要を参照ください。
- メンデルスゾーン、シューマンとの交流のページへのリンク