ミューズにしてファム・ファタル
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「アルマ・マーラー」の記事における「ミューズにしてファム・ファタル」の解説
アルマは画家エミール・ヤーコプ・シンドラー(1842年 - 1892年)の娘としてウィーンに生まれる。アルマが13歳のときに父が亡くなり、母は父の弟子のカール・モル(英語版)(1861年 - 1945年)と再婚する。彼女は実父を愛した反面、養父は愛せなかったという。裕福な中流の家で、母親は芸術家サロンの主宰者であった。 アルマは少女時代から絵画、文学、哲学、作曲に才能を発揮し、美貌で多くの男性芸術家をとりこにした。世紀の変わり目に、当時新進気鋭の作曲家アレクサンダー・ツェムリンスキーに入門し、歌曲の作曲を開始する。ツェムリンスキーはアルマに恋い焦がれていたというが、実際に恋愛関係にあったか否かは定かではない。ツェムリンスキーより前には、グスタフ・クリムトとも深い仲にあったという。 1900年11月10日に、アルマはグスタフ・マーラーと知り合う。アルマは当初、マーラーを嫌っていたという。アルマはその時、多くの男性の信奉者らに囲まれており引く手あまたであった。一方のマーラーには、女優との恋愛の噂やリハーサルでの不遜な態度という悪評が立っていた。ところがアルマはマーラーからの求愛に応えて結婚を承諾する。その際、アルマの一族や友人らからの反対は大きかった。マーラーは田舎育ちでユダヤ人、しかも多額の借金を抱えており年齢差も大きかった。またマーラー自身、アルマに献身的であることを求め、婚約時から彼女自身が作曲することを禁止するなど命令的な態度を取った。婚約はしばらくの間、秘密にされた。 当初はウィーン楽壇の将来を担う芸術家を支えることに愛を見いだしたアルマだったが、マーラーの借金、育児、互いの交友関係が合わないことなどが彼女の心労の要因となる。さらにアルマはマーラーの楽譜の清書を始め、夫の仕事を手伝う役を買って出るものの、彼女の献身的な態度をマーラーが常に尊重した訳ではなかったという。 夫婦の中が冷えきっていた折、アルマは建築家のヴァルター・グロピウスに出会い、求愛される。彼女自身、グロピウスに惹かれていたという。晩年のマーラーがアルマとの関係修復を望んでフロイトの診察を受けたというエピソードは有名である。さらにマーラーは、アルマの関心を取り戻そうとして、彼女がかつてツェムリンスキーのもとで作曲した歌曲を、自らの契約先であるウニヴェルザール出版社に持ち込んだ。 1911年に未亡人となった後、画家のオスカー・ココシュカらとも関係を深めながらも(ココシュカの油彩画「風の花嫁」は、アルマとの性交渉を赤裸々に描いた作品として有名である)、グロピウスと再婚した。グロピウスとの間にもうけた娘マノンは聡明で美少女だったが、虚弱で夭逝した。マノンのことをことのほかかわいがったのが作曲家のアルバン・ベルクであり、ベルクはマノンの死後に『ある天使の追想に』の献辞を付したヴァイオリン協奏曲を作曲した。ここで「天使」と呼ばれているのがマノンにほかならない。ベルクはまだ生家が裕福だった思春期に使用人の女性に娘を身ごもらせた過去があり、その女性や娘と引き離された上、結婚相手の女性とは幸せな家庭をつくることができなかった(アルマは、晩年のベルクの不倫の恋をとりもち、後々までベルク未亡人の恨みを買っている)。そのことからベルクは、マノンをわが子と重ね合わせていたとされる。 グロピウスとの関係が破綻した後、アルマは年少のフランツ・ヴェルフェルと再々婚した。ヴェルフェルはイタリア・オペラ、とりわけヴェルディにしか興味がなく、同時代の音楽を大抵は罵倒しており、音楽的にアルマと共通する点がほとんどなかった。 1938年にオーストリアがナチス・ドイツに併合されると、ナチの手を逃れるために1940年まで南フランスのサナリ=シュル=メル(英語版)に滞在。1940年にナチス・ドイツによるフランス占領が始まるとピレネー山脈を徒歩で超えてスペインを経由してポルトガルへ逃れ、10月にアメリカのニューヨークへ辿り着いた。その後はロサンゼルスに定住した。 アメリカ亡命後、とくにロサンゼルス時代のアルマは、自ら音楽サロンを主宰して、ストラヴィンスキー、シェーンベルク、コルンゴルトなど、ヨーロッパからの多くの亡命作曲家が出入りを重ねた。コルンゴルトがストラヴィンスキーの前でシェーンベルクのピアノ曲を暗譜で通して演奏してみせ、驚かせたというエピソードは、アルマのサロンにおいての出来事である。 ちなみに、マーラーとの間にもうけた2人の娘のうち、長女マリア・アンナは幼くしてこの世を去ったが、次女のアンナ・ユスティーネは後に彫刻家として活躍した。彼女も母と同じく多彩な恋愛遍歴で知られ、生涯に5回結婚している。2人目の夫は、アルマの指示でマーラーの交響曲第10番の補筆を行った作曲家エルンスト・クルシェネクである。第二次世界大戦中、母親がアメリカ亡命を選んだのに対して、アンナ・ユスティーネはイギリス亡命を選んだ。
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