マスコット時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/04 05:51 UTC 版)
引退後1年間は打撃投手として阪急に残ったが退団。その後芦屋市でスナックを開いていたが1980年秋に阪急の球団職員が島野を訪ねフィリーズのマスコット「フィリー・ファナティック」を例にあげて球団マスコット(着ぐるみ)役への就任要請をする。マスコット導入にあたり、島野の宴席での明るさを覚えていた幹部が、適役だと判断しオファーしたものだが、後日球団事務所を訪れたところ、メジャーリーグ各球団のマスコットの活躍、特にサンディエゴ・パドレスの「フェイマスチキン」のパフォーマンスをビデオで見せられ、さらにファンサービス担当者の「野球を知っていないとできない仕事だよ」との言葉や、また山田久志が「マウンドでいい思い出を残せなかったが今までにない新しい足跡を残せる」「シマちゃん(島田)のぬいぐるみに勝利を祝ってもらえるよう頑張る」と後押しされ、「お客さんが少しでも増えるなら」と引き受ける決心をつけた。 人形劇団などで特訓し、1981年4月11日の西宮球場でブレービーはデビューした。たちまち人気者となって、阪急電車のホームや車両先頭などにイラストが使われるようになった。ところが1ヶ月後、東京新聞に「ぬいぐるみ着てグラウンドに帰った男の夢」、「島野修投手(巨人-阪急)の野球人生」、「いま『道化』でエースに」という見出しの記事が掲載された。東京新聞の記事は「巨人のドラフト1位の期待を裏切った選手の“転落”ぶり」を伝えようという、ネガティブなスタンスであり、更に、シーズン終了後の11月には、巨人の親会社・読売新聞の紙面にも「ドラフトの星 人生流転」、「ファンのため“道化役” プライドは心の中に…」とネガティブな記事が載った。以降、西宮球場では島野の姿を嘲るヤジが投げつけられるようになった。 島野は悩んだが、試合後球場近くの食堂で落ち込んで飲んでいるときに、「ブレービーがめちゃくちゃ面白かった」、「またブレービーを見たいから球場に連れて行って」と親にせがむ子供の声を聞き、迷いが吹っ切れた。以後、ファンに楽しんでもらえるようなパフォーマンスを演じ続け、広く愛されるようになった。 1989年には球団が阪急からオリックスに譲渡され、1991年には球団愛称がブルーウェーブへ変更された事で、マスコットもブレービーから「ネッピー」となったが、新しい本拠地のグリーンスタジアム神戸でも引き続きスーツアクターを務めた。1996年6月15日、札幌・円山球場で行われたロッテ戦で1,000試合出場を達成し、イチローから祝辞を受けている。 スーツアクターは重さ10キロ以上の衣装を身に着けながら様々なパフォーマンスを行うため大変な重労働で、夏場は1試合で体重が3キロ減ることもあったという。日当は三万円だった。また激しいパフォーマンスにより怪我も絶えず、なかでも1993年7月21日に神戸で初のオールスター戦が行われた際、バギーカーを運転しながら踏み台をジャンプするアトラクションで転倒し、肋骨を3本折るアクシデントに見舞われた。寝返りも打てないほどであったが、後半戦ではコルセットを3枚巻き、痛みの少ない左手の動きを強調して出場し続けた。 身体の動きが悪くなったため1998年シーズン終了と共にネッピーのスーツアクターを引退。在籍中の主催試合1,175試合を皆勤で演じるなど、日本球界の球団マスコット演技者の草分けとなった。 スーツアクター引退後も引き続きオリックスに球団職員として残留し、野球教室やコミュニティー活動などを担当していたが、2004年3月31日に病気療養のため退職した。 2010年5月8日、脳出血のため西宮市内の病院で死去。満59歳没。島野が死去した2010年を最後にオリックスはマスコットの変更を発表、ネッピーも勇退することになった。
※この「マスコット時代」の解説は、「島野修」の解説の一部です。
「マスコット時代」を含む「島野修」の記事については、「島野修」の概要を参照ください。
- マスコット時代のページへのリンク