マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱
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「ルイ14世 (フランス王)」の記事における「マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱」の解説
詳細は「ジュール・マザラン」および「フロンドの乱」を参照 ルイ14世が即位した当時のフランスは、先王ルイ13世と宰相リシュリュー枢機卿によって大貴族とユグノー勢力を抑制して国王集権化が進められており、また対外的には三十年戦争に介入してハプスブルク家の神聖ローマ皇帝及びスペインと戦っていた。 摂政アンヌから宰相に任じられたマザランはリシュリューの腹心だった人物で、前任者の中央集権化政策を引き継ぎ、貴族を抑制して国王の権力を強化しようと図っていた。また対ハプスブルク家政策としての三十年戦争への介入も続けた。有能なコンデ公ルイ2世やテュレンヌ子爵に率いられたフランス軍は戦況を有利に展開させ、マザランは終戦交渉に入る。マザランの外交手腕によりフランスはアルザス地方を獲得し、神聖ローマ帝国の分裂を決定づけ、ハプスブルク家の勢力の弱体化に成功することになる。だが一方でその戦費も莫大なものとなり、重税が課され民衆の不満が高まっていた。 和平交渉が大詰めとなった1648年にフロンドの乱が勃発する。7月、政府が新税の導入を図ると、これに反対するパリ高等法院が他の高等諸院と合同してアンタンダン(地方監察官)の廃止を含む27カ条の要求書を出した。マザランは一旦は譲歩の姿勢を示すが、8月に入ると首謀者を逮捕する。これに反発したパリの民衆がバリケードを築き蜂起した。パリ高等法院の法服貴族と民衆が結びついてパリは無政府状態に陥り、ルイ14世と摂政アンヌはパリを脱出する。それから程なくしてヴェストファーレン条約が締結されて三十年戦争が終結すると、コンデ公率いるフランス軍が国王を助けるために帰還した。1649年1月にコンデ公はパリを包囲する。3月にリュイユ和議が締結され、乱はひとまず収まった(高等法院のフロンド)。 王室はパリに戻ったが、乱平定の功績者コンデ公とマザランが対立して貴族のフロンドが勃発する。マザランに対する貴族と民衆の不満から反乱軍の勢力は強く、マザランは一時亡命を余儀なくされ、ルイ14世は再びパリから逃れざるを得なくなった。パリに入城したコンデ公が優位に立つが、1652年に満13歳を迎えたルイ14世が成人を宣言するとパリ高等法院は王権側に付き、コンデ公はパリからの退去を余儀なくされてフロンドは分裂した。1652年に優位に立った王太后がマザランをフランスに呼び戻すと高等法院は再び王権に背き、コンデ公がパリに舞い戻った。だが、コンデ公はパリ市民の支持を受けられず、混乱の長期化に疲弊したフロンド派が相次いで脱落し、1653年にコンデ公はスペイン領ネーデルラントへ亡命し、ルイ14世はパリへ帰還して乱は終結した。 マザランは乱中の譲歩を次々と撤回して、高等法院を抑え込みにかかり、伝統的な帯剣貴族たちによる全国三部会開催要求も無視した。この頃の出来事として、17歳のルイ14世が狩猟の帰りに乱の根源となっていたパリ高等法院に立ち寄り、法服貴族たちを高飛車に恫喝して有名な「朕は国家なり」(L'État, c'est moi)の科白を言い放ったというエピソードがヴォルテールの『ルイ14世の時代』に記述されている。ルイ14世を象徴する有名な言葉ではあるが、現代の研究では実際にルイ14世が発した言葉ではなく創作であると考えられている。 三十年戦争は終わったが、フランスはスペインとの戦争を継続しており、テュレンヌがフランス軍司令官としてスペイン軍に属したコンデ公とネーデルラントで戦った(フランス・スペイン戦争)。フランスはイングランドから軍事支援を受け、1658年のダンケルク近郊の砂丘の戦いで英仏同盟は勝利した。翌1659年に結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈を境界とするフランスとスペインの国境を確定、ルイ14世はスペイン王フェリペ4世の王女マリア・テレサ(マリー・テレーズ)と婚約した。 この頃、ルイ14世はマザランの姪マリー・マンチーニと恋仲になっておりスペイン王女との結婚を拒絶したが、事は国益の問題であり、マザランはルイ14世とマリーを無理やり別れさせている。また、この条約でコンデ公は罪を許されフランスへ帰国、以後はフランスのために戦うことになる。 1660年に結婚式が執り行われ、マリー・テレーズはスペイン王位継承権を放棄した。スペインは莫大な持参金(50万金エキュ)の支払いに同意したが、結局支払われなかった。後にルイ14世はこの未払いの持参金をもってマリー・テレーズの王位相続権を主張し、スペインとの戦争の口実とする。
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