マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱とは? わかりやすく解説

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マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 03:16 UTC 版)

ルイ14世 (フランス王)」の記事における「マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱」の解説

詳細は「ジュール・マザラン」および「フロンドの乱」を参照 ルイ14世即位した当時フランスは、先王ルイ13世宰相リシュリュー枢機卿によって大貴族ユグノー勢力抑制して国王集権化進められており、また対外的には三十年戦争介入してハプスブルク家神聖ローマ皇帝及びスペイン戦っていた。 摂政アンヌから宰相任じられマザランリシュリュー腹心だった人物で、前任者中央集権化政策引き継ぎ貴族抑制して国王権力強化しよう図っていた。また対ハプスブルク家政策としての三十年戦争への介入続けた有能なコンデ公ルイ2世テュレンヌ子爵率いられフランス軍戦況有利に展開させ、マザラン終戦交渉に入る。マザラン外交手腕によりフランスアルザス地方獲得し神聖ローマ帝国の分裂決定づけ、ハプスブルク家勢力弱体化成功することになる。だが一方でその戦費莫大なものとなり、重税課され民衆の不満が高まっていた。 和平交渉大詰めとなった1648年フロンドの乱勃発する7月政府が新税の導入を図ると、これに反対するパリ高等法院が他の高等諸院と合同してアンタンダン(地方監察官)の廃止を含む27カ条の要求書出したマザランは一旦は譲歩姿勢を示すが、8月に入ると首謀者逮捕する。これに反発したパリ民衆バリケード築き蜂起したパリ高等法院法服貴族民衆が結びついてパリ無政府状態に陥り、ルイ14世摂政アンヌパリ脱出する。それから程なくしてヴェストファーレン条約締結され三十年戦争終結すると、コンデ公率いフランス軍国王助けるために帰還した1649年1月コンデ公パリ包囲する3月にリュイユ和議締結され、乱はひとまず収まった高等法院のフロンド)。 王室パリ戻ったが、乱平定功績コンデ公マザラン対立して貴族のフロンドが勃発するマザラン対す貴族民衆の不満から反乱軍勢力強くマザラン一時亡命余儀なくされ、ルイ14世再びパリから逃れざるを得なくなったパリ入城したコンデ公優位に立つが、1652年に満13歳迎えたルイ14世成人宣言するパリ高等法院王権側に付きコンデ公パリからの退去余儀なくされてフロンドは分裂した1652年優位に立った王太后マザランフランス呼び戻す高等法院は再び王権背きコンデ公パリ舞い戻った。だが、コンデ公パリ市民支持受けられず、混乱長期化疲弊したフロンド派相次いで脱落し1653年コンデ公スペイン領ネーデルラント亡命しルイ14世パリへ帰還して乱は終結したマザランは乱中の譲歩次々と撤回して、高等法院抑え込みにかかり、伝統的な帯剣貴族たちによる全国三部会開催要求無視したこの頃の出来事として、17歳ルイ14世狩猟帰りに乱の根源となっていたパリ高等法院立ち寄り法服貴族たちを高飛車に恫喝し有名な朕は国家なり」(L'État, c'est moi)の科白言い放ったというエピソードヴォルテールの『ルイ14世時代』に記述されている。ルイ14世象徴する有名な言葉ではあるが、現代の研究では実際にルイ14世発した言葉ではなく創作であると考えられている。 三十年戦争終わったが、フランススペインとの戦争継続しており、テュレンヌフランス軍司令官としてスペイン軍属したコンデ公ネーデルラント戦ったフランス・スペイン戦争)。フランスイングランドから軍事支援を受け、1658年ダンケルク近郊砂丘戦いで英仏同盟勝利した。翌1659年結ばれたピレネー条約によってピレネー山脈境界とするフランススペイン国境確定ルイ14世スペイン王フェリペ4世王女マリア・テレサマリー・テレーズ)と婚約したこの頃ルイ14世マザランの姪マリー・マンチーニ恋仲になっておりスペイン王女との結婚拒絶したが、事は国益問題であり、マザランルイ14世マリー無理やり別れさせている。また、この条約コンデ公は罪を許されフランスへ帰国以後フランスのために戦うことになる。 1660年結婚式執り行われマリー・テレーズスペイン王継承放棄したスペイン莫大な持参金50万金エキュ)の支払い同意したが、結局支払われなかった。後にルイ14世はこの未払い持参金をもってマリー・テレーズ王位相続権主張しスペインとの戦争口実とする。

※この「マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱」の解説は、「ルイ14世 (フランス王)」の解説の一部です。
「マザラン枢機卿の執政とフロンドの乱」を含む「ルイ14世 (フランス王)」の記事については、「ルイ14世 (フランス王)」の概要を参照ください。

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