マイカル本牧時代
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1945年8月15日の終戦後、本牧はアメリカ海軍横須賀分遣隊の管理下に置かれ、軍人やその家族の居住地として接収された。1982年3月31日の本牧米軍接収地返還式を以って日本に土地が返還された事により、新本牧地区(約8.8ha)は再開発の機運が高まった。 再開発に当たり、横浜市は新本牧地区を「街づくりの実験台」と位置づけ、同区をセンター地区・表通り一地区・表通り二地区の3つに分けた。そのうち、センター地区には市からの委託を受けて既に出店表明していたニチイが、1984年に行われたコンペティションを経て同社初のデベロッパー業務を手掛ける事となった。開発に当たり、新本牧地区商業課発基本策定委員会はセンター地区を単に物販販売施設だけでなく文化施設等をふんだんに取り入れたリゾート性の高い商業地域にする事を提案。この提案を受けてニチイは、六区画に分かれているセンター地区を一体開発して全体の半分以上を非物販施設にして、商業施設には専門店、飲食店、ホテル、スポーツ施設の導入する報告書を纏めた。 仮称SC名称は本牧ポート・ヒル。1988年3月11日に開かれたテナント募集の説明会には約1000人の希望者が集まった。一番高いテナント料金は5番街の1階の契約面積3.3㎡当たり補償金が400万円、賃貸料が同月間4万円に加え売り上げ歩合だとされている。 1988年にニチイがマイカル宣言を行う。当時ニチイの社長だった小林敏峯はSC名称にもマイカルを使おうと提案。マイカル宣言通りの理念に沿った未来都市マイカルタウンの1号店として、バブル絶頂期寸前の1989年4月30日にマイカル本牧が誕生した。目標年商は320億円。ニチイは山下公園や外人墓地等の観光拠点が近い事に注目、当施設を「都会派消費者がくつろぎ、楽しめるアーバンリゾート型ショッピングセンター」と位置づけた。更に東京や遠方からの客もターゲットにする為、本牧だけにしかない専門店を集中してテナントとして出店させており、大型複合ショッピングセンターのパイオニアともいえる存在であった。 本牧サティ・ネビューラといったニチイグループの専門店の他、外資系・日系の飲食店、ミッソーニやヒューゴ・ボスといった海外ブランド専門店、住宅機器・外車専門のショールーム、銀行・証券会社・郵便局が入居する金融センター、ニューヨークのアポロシアターとの提携による多目的イベントホール、映画館、フィットネスクラブ等、計234のテナントが1番街から6番街の建物に入居した。 マイカル本牧はスペイン風にしており、近隣の道路もそれに合わせてイスパニア通りと命名されている。建物はベージュでスパニッシュ・コロニアル様式を採用。開業当初、6棟体制であったが最終的には計10棟が完成している。なお、新本牧地区に建てられる建築物は美観を維持統一する為、屋根に勾配をつけ、外壁の色は原色を避け無ければならない為、建築協定に則りマイカル本牧の建物全ての屋根に勾配がついている。 開業1か月後の来場者数や売上はニチイが当初予想していたものを上回る形となった。更に1年後には来場客数1500万人を達成、そして商業施設として横浜市の2つの賞に受賞する等、順風満帆であったように見えたマイカル本牧だが、実際には約70億円の不動産取得費を含めた事業費約400億円の投資が足を引っ張る形となっていた。 当初の好調や前述の開発事業費負担の大きさから、1990年以降テナント料を大幅に引き上げたが、折からのバブル崩壊が重なったことでテナントが相次いで撤退。さらに1993年には横浜ランドマークタワー等の新名所の完成で横浜みなとみらい21が頭角を現した事により、鉄道駅から遠く交通アクセスの悪いマイカル本牧の客足が徐々に奪われていった。これを受け1996年3月より、ニチイ(1996年よりマイカル)はアミューズメント施設の強化等、マイカル本牧の全面改装に踏み切るものの、客足やテナント流出に歯止めがかからず、マイカル自体の業績悪化に加えて、見据えていた横浜高速鉄道みなとみらい線の本牧延伸が採算が合わないとして議論が凍結した事に伴い2000年までに衰退していった。経営再建の為、マイカルは大半の建物を売却し、末期にはサティの1番街と金融と駐車場の3番街のみの2棟体制となった。 2011年2月28日、イオン株式会社の下で経営再建されたマイカルが吸収合併で消滅する事となり、マイカル本牧は約22年の歴史に幕を下ろした。
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