ポーランド戦からフランス戦
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「エルンスト・バルクマン」の記事における「ポーランド戦からフランス戦」の解説
1939年9月、バルクマンはポーランド侵攻で、第14軍第VIII軍団の隷下におかれたSSゲルマーニア連隊の第3大隊第9中隊の機関銃手として従軍。いくつかの戦功を上げたバルクマンは、親衛隊兵長(SS-Rottenführer)に昇進したが、負傷により戦傷章(黒色)も授与されている。翌1940年のフランス侵攻にも従軍し、歩兵突撃章を授与された。
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ポーランド戦からフランス戦
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「ハインツ・グデーリアン」の記事における「ポーランド戦からフランス戦」の解説
1939年9月1月から開始されたポーランド戦役においては、1個装甲師団・2個自動車化歩兵師団を擁する第19装甲軍団長として従軍した。しばしばポーランド戦は航空支援のもと装甲部隊によって突破する電撃戦と関連付けられるが、ドイツ軍はポーランド側の航空戦力を撃滅させることはできず、最後まで抵抗に遭い、装甲部隊もいくつかのトラブルに見舞われていた。それでも9月4日にはポーランド回廊を突破して東プロイセンに到達した。翌日、現場を視察したヒトラーは戦果を見て「これはたぶん、我が軍の急降下爆撃機がやったのだろうね」と述べたが、グデーリアンは「いいえ、われわれの戦車です」と答え、ヒトラーを驚かせた。続いてはブレスト・リトフスクへの突進を上申して認められ、9月17日にはブレスト・リトフスクの要塞を陥落させた。その功により、10月27日にはヒトラーから騎士鉄十字章を授与される。 1940年のフランス戦においてはOKHは、右翼(北側)を強化して大西洋岸を目指すというシュリーフェン・プランに近い作戦が立案されていた。しかしA軍集団参謀長エーリヒ・フォン・マンシュタインはアルデンヌを装甲部隊で突破して攻撃する計画を立案した(マンシュタイン・プラン)。マンシュタインは自らの計画について装甲部隊の専門家からの意見を求め、グデーリアンはアルデンヌは装甲部隊で突破可能であるという保証を与え、装甲部隊を集中的に運用するべきであると述べた。カール=ハインツ・フリーザー(ドイツ語版)は、マンシュタイン・プランがマンシュタインとグデーリアンによる「二人乗り自転車」であったと評している。この計画はOKHからの激しい抵抗にあったものの、ヒトラーの支持をとりつけ、実行に移されることとなった。 攻撃にあたっては、グデーリアンはエヴァルト・フォン・クライスト騎兵大将麾下の装甲集団に属する第19装甲軍団(3個装甲師団基幹)の司令官となった。攻撃事前にはクライストや空軍のフーゴ・シュペルレとの意見対立はあったものの、攻撃本番にあたっては連合国軍の意表を突く装甲部隊の集中でスダンを突破した。アルデンヌ運河(英語版)の橋を確保した後は橋頭堡を確保するという当初の命令を拒否し、全兵力を持ってアミアンからオワーズ川まで快進撃を行った。このグデーリアンの進撃はフランス軍に大打撃を与え、フランスの運命は定まった。しかしグデーリアンの快進撃は、クライストやヒトラーにとっては側面からの攻撃を招く危険極まりないものと映っていた。このため5月16日には装甲部隊を停止させるようヒトラーからの命令が下り、これに反発したグデーリアンはクライストから指揮権を没収された。しかしクライストの上官であった第12軍司令官ヴィルヘルム・リスト上級大将により、グデーリアンは第19装甲軍団の指揮を引き続き取ることとなった。5月19日にはA軍集団直属のホート装甲集団に転属となり、進撃を再開した。しかしヒトラーやクライスト、A軍集団司令官ゲルト・フォン・ルントシュテットは攻撃に慎重であり、ダンケルクの戦いにおいては攻撃を禁止され、渡海脱出する連合軍のいわゆる“ダンケルクの奇跡”を目の前に見ながら何もできないという屈辱を味わっている。次いで南下してアルプスまで進撃し、残存するフランス軍を壊滅させた。この戦功により、グデーリアンは7月19日付で上級大将に昇進した。 戦車部隊の指揮官としては優れた戦術眼を持ったグデーリアンの用兵は現在でも高い評価を受けている。一方で回想録においてはマルタ島を降下猟兵で占拠する案や、4~6の装甲師団を用いて北アフリカを制圧する案を述べているが、当時のドイツ軍の兵站能力では極めて困難であり、ラッセル・A・ハートは「より大規模な戦略を観る目がない」と指摘している。 また1940年12月から1941年4月にかけて訪独した山下奉文中将率いる陸軍軍事視察団に対して電撃戦に関する講義を行っている。
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