ポーランド女性同権連盟を創設
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「パウリナ・クチャルスカ=ラインシュミット」の記事における「ポーランド女性同権連盟を創設」の解説
クチャルスカは、1907年4月に立ち上げられたポーランド女性同権連盟 (Polskie Stowarzyszenie Równouprawnienia Kobiet ; PSRK) の代表者を務めたが、彼女はすぐに同組織から離脱し、約3か月後に女性のみから構成される女性同権同盟 (Związek Równouprawnienia Kobiet ; ZRK) を新しく組織した。同組織は1907年のうちに合法化され、1910年にはポーランド女性同権同盟 (Związek Równouprawnienia Kobiet Polskich ; ZRKP) に改名する。1907年のフェミニズム組織の分裂について、『ステル』の編集にも携わったパフツカは、クチャルスカが女性のみの組織に拘泥し、男性の会員もいたPSRKを敬遠したことが原因であるとした。しかし山田朋子(2013)は、分裂した後も2つの組織は協力関係にあり、ZRKPの機関誌となった『ステル』への寄稿者にはPSRKの会員も含まれていたため、分裂の効果は薄かったとの見方を示している。ZRKPはポーランド人による最初のフェミニスト組織であるとされ、選挙権や教育・就業などの面での男女の機会均等などを訴えたが、その活動は常に警察に監視されていた。 ZRKPの本部はクチャルスカとボヤノフスカが暮らしたワルシャワのマルシャウコフスカ通り(ポーランド語版、英語版)のアパートに置かれ、そこは『ステル』の編集局も兼ねていた。同所には講演会などの集会のための広間のほか、女性問題を扱った書物などを収めた読書室が整備されていた。またクチャルスカはそこで、ジミホフスカによる集会に強く影響を受けたフェミニストサロンを主宰しており、オジェシコヴァおよびコノプニツカのほか、作家マリア・ドゥレンビアンカ(ポーランド語版、英語版)、医師ユスティナ・ブジンスカ=ティリッカ(ポーランド語版、英語版)および医師アンナ・トマシェヴィッチ=ドブルスカ(ポーランド語版、英語版)、ジャーナリストのセシリア・ワレフスカ(ポーランド語版)、活動家のカジミエラ・ブジウィドワ(ポーランド語版、英語版)らが参加した。 ZRKPは支部を各地に設けることで組織の規模を拡大させた。1908年にはウッチ、シェドルツェ(ポーランド語版、英語版)、キエフ、ルブリン、プウォツク、ペテルブルクおよびラドムに、1911年にはビャウィストクに、1913年にはオデッサに支部を置いた。1911年時点の会員数は、ワルシャワで215人、支部で375人の計590人に上った。講演会の実施回数は1908年で計29回、1911年で計31回、1912年で計50回であり、講演会の参加者の延べ人数は1908年で約2,300人、1911年で約3,000人、1912年で約4,000人であった。
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