ポーランド戦線
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/19 19:09 UTC 版)
「第4装甲師団 (ドイツ国防軍)」の記事における「ポーランド戦線」の解説
1939年、ポーランド侵攻が始まると第4装甲師団は南方軍集団の一部として最初に国境を超えた部隊の1つとなった。この時点で師団は341両の戦車を有し、その内訳はI号戦車183両、II号戦車130両、IV号戦車12両、各種指揮戦車16両であった。ポーランド出身の歴史家Mieczysław Bielskiは、ドイツ軍のポーランド領侵入直後の9月1日に発生したモクラの戦い(英語版)において、第4装甲師団が民間人を用いた「人間の盾」を構築していたと主張している。この戦いにおいて、第4装甲師団を相手に戦ったのはユリアン・フィリポビッチ(ポーランド語版)大佐率いるヴォリニア騎兵旅団(英語版)である。ポーランド出身の歴史家Kazimierz LeszczyńskiおよびJanusz Gumkowskiは、9月3日に前線近くでポーランド軍作戦機が撃墜され、搭乗員らが第4装甲師団の捕虜となったと主張している。捕虜のうち1名は第4装甲師団の将兵による拷問を受け、鼻と耳を削がれ舌を切り取られた後に処刑されたという。 その後、第1装甲師団の支援を受け、第4装甲師団はクウォブツク近くのポーランド軍防衛線の突破に成功、ワルシャワへの進軍を開始した。9月8日、第4装甲師団はワルシャワに到達し、市街への奇襲攻撃を図った(ワルシャワ包囲戦(英語版)。同日17時00分、第31歩兵師団の援護を受けた第4装甲師団はワルシャワ西側のオホタ(英語版)区への攻撃を試みるも、ポーランド側守備隊の激しい抵抗に遭遇した為に撤退する。翌日、第4装甲師団は砲兵およびLSSAH連隊の支援を受けてオホタ区およびボラ(英語版)区への再度攻撃を試みた。しかし大通りは守備隊が構築した対戦車陣地と障害物で厳重に防衛されており、攻撃は難航した。ワルシャワは9月28日までに陥落するが、第4装甲師団はこの戦いで多くの戦車を失った。
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