ボノ・マンソの編年と発展
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 23:46 UTC 版)
「ボノ・マンソ」の記事における「ボノ・マンソの編年と発展」の解説
ボノ・マンソは、周辺の他の遺跡にくらべて倍以上の規模があり、口頭伝承によると古代の交易の鍵となる場所にあったとされている。aponkokman、すなわち「馬の通り道」は、他の遺跡では1本あればいいほうで完全に失われていることが多い。考古学的にも口頭伝承から考えても「馬の通り道」は、主要な遺跡に集中していることを想定させる。ボノ・マンソへ至る交易路の数は、近隣のどの遺跡よりも多いと思われる。交易路が多いということは、出生率、死亡率、移住、男女比率などを考えようとしても、人口の流動性が多いことを予想させるため、ボノ・マンソの人口規模の把握を困難にする。 ボノ・マンソの人口規模を把握し、推測するのに最も有効なのは、マウンドの規模だと思われる。というのは、マウンドは、廃棄された家の大きさにほぼ相当すると推定されるからである。ボノ・マンソはおおきく3つの時代に区分される。 まず、第1相の時代は、13世紀から14世紀の時期に相当し、この時期の土器は至るところに散布がみられるものの、10000m2の面積で、100m2あたり4つのマウンドが作られている。このことは、1軒につき5人の人は住まなかったことを意味する。100m2の単位が230箇所あることを考えると1相の時期は4600人、ゴミが廃棄されてできたマウンドで10%ほど減らして4140人くらいだったと推定される。どうようにして2相と3相を計算すると、2相のときは、10000人、3相のときは8000人ほどであったと考えられる。2相と3相の時期の家は、1相のときのような網枝に泥を塗りたくって造ったものではなく、より洗練されて規模も大きくなっている。 土器の採集量は、2相は、100m2あたり132片、3相は、100m2あたり98片となっている。いくつかの推定がこのごく仮説の域にとどまるモデルから引き出すことができる。まず遺跡全体に1相の居住がみられるが、薄く広く散在的であったということである。これは、出土品から考えても1相の終末から2相にかけての時期である15世紀から16世紀ごろに著しく人口が増加したと考えられることから推定できる。 ボノ・マンソの最盛期は、2相の時期の居住に見られる。人口の増加は、土器の生産が1相後半の占地から引き継がれて大きく発展したのみならず、土器の中央部の文様帯に縄目文やトウモロコシの穂軸状のミシン目文様が施されるようになり、表面を石灰で塗り固めたように見せる土器が出現したり、丁寧に文様が施された喫煙用パイプがあらわれるのもこの時期である。2相の占地が確認できる堆積層をはがすとその下はほとんど1相の占地を示す堆積層だということは、1相の集落が放棄されたのではなく、人口の増加も突然の移住の結果ではないことを示す。 2相の時期には、新しい考え方を持った新たな人々が着実に入ってきて定着していったが、3相になると人口が減少する。2相の時期の富や生活の高度な水準が3相の時代に引き継がれていった。3相の時期に新たに加わった要素に曲線状の沈線をほどこした雲母をちりばめたような異なった種類の煙草パイプの出現である。ボノ・マンソに関する口承伝承には、戦争のあとに飢饉がおこったことや王位継承の抗争で王族たちが暴行をおこなったために住民が海岸地方へ避難したと伝えられている。また、この時期はサハラ交易のルートが東へ移動する時期であり、17世紀から18世紀には、いずれにしても人口減少の強い誘因があったものと考えられる。少なくとも考古学的な調査の成果から、3相の時期に経済的格差によって北から南への人口の移動があったこと、内在的、政治的な不安定さがあったことがうかがわれる。ボノマンソで最大の「家」の遺構は、王宮で、王宮は、法廷、奴隷や后たち、料理人たち、芸術家たちの住む多くの区画に区分でき、歴代の君主は、同じ王宮に住んでいたと考えられ、これは、ボノ・マンソの住民の末裔と考えられるTekyimanの人々にも見られる習慣である。 口承伝承者の間で、ボノ・マンソに見られる木製の柵がボノ・マンソの周囲をめぐるものか、ボノ・マンソの入り口へつながるものか意見は分かれるものの、防御施設である点については一致している。ボノ・マンソの町の構造は、水利や政治的発展と密接な関係があったと考えられている。13~14世紀頃の1相の居住は散在的だが2相以降は、遺跡の中央部に小さな家屋が集中して築かれている。このことは、1相の時期は、ゆるやかだった政治的結合が、2相以降は、強力な政治的権威のもとに統合されたことを示していると推定されている。注目される外国との交易を反映する居住は、外国人居住者が住んだことでは同様と考えられてきたベゴーとは異なり、町の中心から4km離れたところに外国人の居住地がある。ボノ・マンソの町の中から出土した土器の分析をしても著しく異なった居住地域は見られない。このことは、たとえボノ・マンソに、外国人が居住してきても数は少なく女性の陶器工人が中心であって、外国人の間で彼女たちが暮らさなかったのなら在地の土器を製作することを受け入れたのだと思われる。
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