ボノ・マンソと交易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/09 23:46 UTC 版)
考古学の成果からは、ボノ・マンソの交易活動についての直接的証拠は発見できなかったが、外部の人々との思想的な影響や物資の交換を推定させる様相を確認することはできる。まず第一に挙げられるのはaponko(馬)に関する口承伝承で、ponkoとは、マンデ人から借用語であり、馬が普通にみられる北方や北西のサバンナ地方との密接な結びつきを想像させる。ポズナンスキーなどの研究者が指摘するように2相の11、12形式の土器の器形について考えると、11形式の土器は、ベゴーの土器であって、1相後半から継承されている。ボノ・マンソに交易品として持ち込まれた金属製品を原形とする在地的な模倣品である。古代の真鍮製の碗がボノ・マンソからしばしば発見されるが、そのような真鍮製の碗は、儀式や神々を崇拝する行為のために用いられるものである。ベゴー地方でも同じ用途で用いられ大切に扱われる。このような遺物は、ニジェール川流域との交易活動の活溌さを示す証拠のように思われる。金属製の器の土器による模倣品は、ニジェール川中流域との交易が15~16世紀に頂点を迎えたことを想起させる。17世紀後半から18世紀はじめは、ヨーロッパ人との交易がわずかにうかがわれるはずの時期であるが、ボノ・マンソには、そのようなヨーロッパ人との交易や海岸地方との接触をうかがわせる考古学的証拠はみられない。むしろボノ・マンソには、近隣の地域間交易の影響のほうが色濃く見られる。1相から3相の居住地から出土する遺物からはボノ・マンソから半径200km以内のベゴーやニュー・ブイペ(New Buipe)、Ahwene kokoとの接触があったことが確認できる。「国際的な」交易、いいかえれば、ボノ・マンソと南方との交易については、17~18世紀においてのみ明瞭に見られる。ボノ・マンソの立地は、ガーナ共和国の中央部であることから、13~14世紀にかけては、ニジェール川中流域を中心とする北側の交易圏に属し、17~18世紀には南側の交易圏に属するなど振り子のように揺れ動いたと思われる。しかし、地域的、国際的な交易という視点から離れてみると、ハニ(Hani)遺跡で見られるように2世紀頃からの鉄器製作の伝統があって、ボノ・マンソでは少なくとも15世紀頃から真鍮の鋳造や鉄器製作がおこなわれており、交易のためにこのような金属の加工をおこなっていたのか地域的な改良にとどまったのか判断は難しい。
※この「ボノ・マンソと交易」の解説は、「ボノ・マンソ」の解説の一部です。
「ボノ・マンソと交易」を含む「ボノ・マンソ」の記事については、「ボノ・マンソ」の概要を参照ください。
- ボノ・マンソと交易のページへのリンク