ビン・タイ作戦とクーロン作戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/28 00:21 UTC 版)
「カンボジア作戦」の記事における「ビン・タイ作戦とクーロン作戦」の解説
第2兵団の地域では、5月5日から25日にかけてカンボジア北東部の拠点エリア702(北ベトナム軍B-2前線の伝統的な本部)に対する第1次ビン・タイ作戦(Bình Tây、平西)が、アメリカ陸軍第4歩兵師団の第1、第2大隊および南ベトナム軍第40歩兵連隊によって実施された。空爆後の最初の米軍ヘリコプターによる攻撃は、激しい対空砲火によって後退させられた。翌日、第506歩兵連隊第3大隊(第101空挺師団からの出向)は反撃を受けずに進軍し、姉妹部隊である第14歩兵師団第1大隊も反抗に遭わなかった。しかし、わずか60人が投入された第8歩兵師団第3大隊は北ベトナム軍の激しい応射(1機のヘリコプターを撃墜、他2機を損傷させる)を前に上陸地帯を封鎖して、彼らは一晩中包囲されることとなった44。翌朝までに、北ベトナム軍はこの地域を去っていた[要出典]。 7日、第2旅団は反撃を受けていない第3大隊を投入した。その 10日後(そしてたった1回の大きな銃撃戦の後)にアメリカ軍は南ベトナムに帰投して、その地域を南ベトナム軍に任せた:201 。歴史家シェルビー・スタントンは、戦闘攻撃にて「攻撃意欲の欠如が顕著に見られた」と指摘し、この師団は「ほぼ全体が戦闘麻痺に苦しんでいる」ように思えると述べた:324 。第2次ビン・タイ作戦中に、南ベトナム軍第22師団は5月14日から26日にかけて拠点エリア702に向けて移動した。 この作戦の第2段階は南ベトナム軍によって、同軍第22師団の分隊が拠点エリア740に対して作戦を行ったのと同時期である、5月20日から6月27日にかけて拠点エリア701に対して実施された[要出典]。 5月10日、第506歩兵第3大隊のブラボー中隊はセ・サン谷にてはるかに大規模な北ベトナム軍に待ち伏せされた。米国兵士8人が戦死、28人が負傷した。 戦死者の中には特技兵レスリー・H・サボ・ジュニア(英語版)(死後軍曹に昇進)がおり、彼は名誉勲章に推挙されたが1999年までその書類が紛失していた。彼は(死後40年以上経過した)2012年5月16日に、バラク・オバマ大統領から名誉勲章を授与された。 第3兵団の戦略地域では、5月6日から6月30日にかけて第25歩兵師団 の第1・第2旅団によるトアンタン44作戦(ボールド・ランサー作戦)が行われた。この作戦の目標は、ベトナム南部タイニン省の北部および北東部に位置する拠点アエリア353、354、707であった。あらためてCOSVN部隊の捜索がカンボジアのメモット(英語版)市街周辺で行われたが、何も発見されなかった。同作戦にて、第25歩兵側が119名の戦死者を出す一方で、北ベトナム/ベトコン部隊は1,017人が戦死した:126。 トアンタン44作戦の開始と同時に、第9歩兵師団第3旅団の2個大隊が「釣針」地区の南西48kmにある国境を越え、5月7日から12日まで「犬の顔(Dog's Face)」と通称された地区へと入った。唯一の北ベトナム軍との激しい戦闘はチャントレア(Chantrea)村落近郊で行われ、北ベトナム兵士51人を殺害、21人を捕虜にした一方で、第3旅団は8人の戦死者と22人の負傷者を出した:272。カンボジアの迫害により殺される数千ものベトナム人民族にとっては遅きに失したが、身の安全のためにまだ避難可能なベトナム人が国内に数万人もいた。南ベトナムのグエン・バン・チュー大統領は、 脱出希望者を全員送還するためにロン・ノルと調整を行った。 しかしその新たな関係は、避難前のベトナム人の家や所有物が略奪されることを、カンボジア政府が防いだりはしなかった:174。 その後チュー大統領はクー・ロン作戦(Cửu Long、九龍)を承認し、機動部隊や装甲部隊を含む南ベトナム陸軍が5月9日から7月1日にかけてメコン川東岸を西および北西へと進軍した。ベトナム共和国海軍110隻と米軍30隻の連合艦隊がメコン川をプレイベンまで上り、第4兵団の陸軍がプノンペン西側へと移動し、ベトナム南部への飛行を希望するベトナム人民族の援護ができるようになった。これらの作戦中に、南ベトナムと米国の海軍はカンボジアから約3万5千人のベトナム人を避難させた:146。その時に送還を希望しなかった人々は強制的に追放された:174。 驚くべきことに、北ベトナム軍はその避難を容易に妨害できた筈なのだが、それをやらなかった:174。 第4兵団の他の作戦として、メコン川西岸に沿って実施される第2次クー・ロン作戦(5月16-24日)も含まれていた。ロン・ノルは、プノンペン南西の4号線沿いカンボジア領内に90マイル(140km)入った街コンポンスプーの奪還を支援してほしいと南ベトナム軍に要請していた。4000人の南ベトナム軍機甲部隊がカンボジアの地上部隊と連携してその街を奪還した。第3次クー・ロン作戦(5月24日-6月30日)は米軍がカンボジアから撤退したあとの、前回作戦の発展版だった[要出典]。 ベトナム人をカンボジア人から救出した後、南ベトナム軍はカンボジア人を北ベトナムから救う任務に就いた。その目標は、首都の北西70kmでカンボジア軍事地域1の本拠地がある場所、コンポンチャム市を解放することであった。 5月23日、大将ド・カオ・トリ(英語版)は国道7号線に沿って1万人の南ベトナム軍部隊を配置し、北ベトナム軍の抵抗が大きいと予想される180エーカー(0.73平方km)のゴム農園に向かった。意外にも戦闘は発生せず、コンポンチャム包囲戦は戦死した北ベトナム軍兵士98人の犠牲で達成された。
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