ヒトラーとポルシェ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 06:18 UTC 版)
「フォルクスワーゲン・タイプ1」の記事における「ヒトラーとポルシェ」の解説
フォルクスワーゲン・タイプ1となる自動車の開発は、直接には1933年、ドイツ首相に就任したヒトラーが、ベルリン自動車ショーの席上でアウトバーン建設と国民車構想の計画を打ち出したところに始まる。当時、いまだ高価だった自動車を「国民全員が所有できるようにする」というプランは、ヒトラー率いるナチス党が大衆の支持を得るのに絶好の計画であった。 ヒトラーは、後にスポーツカーメーカーとなるポルシェ社の創業者であるフェルディナント・ポルシェに国民車の設計を依頼することになった。ポルシェはダイムラー・ベンツ出身の優れた自動車技術者で、退社後の1931年からはシュトゥットガルトに自身の経営する「ポルシェ設計事務所」(現ポルシェ)を構えて自動車メーカーからの設計請負業務をおこなっていた。その過程で、ナチスの支援していたアウトウニオン・レーシングカー(いわゆるPヴァーゲン、1933年)の設計にも携わった。 ポルシェ自身、生涯に開発したい車として「高性能レーシングカー」「農業用トラクター」「優秀な小型大衆車」を挙げていた。そして強豪レーシングカー開発と並行しながら、1920年代以来、在籍していたダイムラー・ベンツでの社内開発提案を皮切りに、独立後の1932年のツュンダップ、1933年のNSUといった自動車メーカーとの提携など、機会を得ては「フォルクスワーゲンの原型」と言うべきリアエンジン方式の小型車開発に取り組んだ。だがその度に、企画立案時点か、ようやく試作車を開発した段階で、予算不足や不景気、提携メーカーの弱腰などによって、いずれも計画を頓挫させ続けていた。それだけにヒトラーの提案は「渡りに船」であった。 運転はしなかったが自動車に乗ることが好きで、メルセデス・ベンツとタトラを好んだカーマニアのヒトラーは、ポルシェに国民車の条件として、以下のような厳しい条件を提示した。 頑丈で長期間大きな修繕を必要とせず、維持費が低廉であること 標準的な家族である大人2人と子供3人が乗車可能なこと(すなわち、成人であれば4人乗車可能な仕様である) 連続巡航速度100 km/h以上 7 Lの燃料で100 kmの走行が可能である(=1 Lあたりの燃費が14.3 km以上である)こと 空冷エンジンの採用 流線型ボディの採用。 これらの条件はもとよりポルシェの目指していた国民車コンセプトに多く合致していたが、ヒトラーがポルシェに強調したのは「この条件を満たしながら、1,000マルク以下で販売できる自動車を作ること」であった。 ヒトラー自身も課題の厳しさは承知していたようだが、当時のドイツ製1,000 cc級4人乗り小型乗用車で、大量生産による低価格化を実現した代表例のオペル「P4(ドイツ語版)」ですら、定価1,450マルクに抑えるのが精一杯だったことを考えれば、販売価格1,000マルクで必要とされる性能の自動車を開発することは極めて困難なテーマであった。しかも水冷サイドバルブエンジンをフロントに積む「P4」は前後とも固定車軸の旧式設計でスタイルも前時代的な箱形であり、最高速度は90 km/h以下で、無論ヒトラーの要求するような性能水準には達していなかった。 ドイツの各自動車メーカーが政府統制によって結成した団体「ドイツ帝国自動車産業連盟」(RDA) が、1934年6月にポルシェ事務所と開発契約を結び、計画がスタートした。ポルシェは、決して潤沢とは言えない開発予算の中で、1930年代初頭から幾度となく試作されては頓挫してきた小型大衆車の開発経験を活かして開発を進めた。
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