パリ 1763年11月-1764年4月
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「モーツァルト家の大旅行」の記事における「パリ 1763年11月-1764年4月」の解説
1763年11月18日、モーツァルト一家はパリに到着した。パリはヨーロッパでも最重要の音楽の中心地であり、強大な権力、富そして知的活動による賑わいを見せていた。レオポルトは近くのヴェルサイユ宮殿でルイ15世への謁見を希望していたが、直前に王族が死亡したことであらゆる招待はすぐには行われなくなり、レオポルトは別の計画を練ることになった。子どもたちに特別の関心を向けた人物はドイツの外交官であるフリードリヒ・メルヒオール・フォン・グリムであり、彼の日誌にはヴォルフガングの芸当が熱い言葉で記録されている。「最も完成されたカペルマイスターだろうと、これ以上の深みを持ったハーモニーと抑揚の技には到達し得ないだろう。」数か月後に記されたレオポルト自身の評価も、同様に感情的なものだった。「私のかわいい娘はまだ12歳だというのに、ヨーロッパ中で最も高い技術を持った奏者の1人だ。そして息子は、一言でいうなら、8歳にして40歳の大人に期待されるよりも多くを心得ている。」 12月24日ヴェルサイユへ移って2週間留まった一家は、その間に宮廷への縁故により王族の晩餐への出席を許された。そこではヴォルフガングが女王の手に口づけすることを許されたと伝えられる。ヴェルサイユにおいて、彼らは有名な公妾のポンパドゥール夫人の元も訪れている。その時既に夫人の最期の一か月となっていたが、レオポルトによれば「いまだ全てを支配する極めて傲慢な女性」だった。ナンネルの後年の回想によれば、ヴォルフガングは椅子の前に立たされて夫人に吟味され、彼女への接吻は許されなかった。 子どもたちがヴェルサイユで公式な演奏会を開いたことを示す記録は存在しない。1764年2月、彼らは50ルイ・ドールと金のかぎたばこ入れを王家の娯楽を司る部署から貰い受けている。おそらく王族を非公式に楽しませたことへの褒美と考えられるが、これ以上の詳細は不明である。パリでは3月10日から4月9日にかけて、サントノーレ通りの私設劇場で演奏会を催した。同時期に、ヴォルフガングの初めてとなる出版作品が世に出された。2セットのヴァイオリンソナタK.6と7、そしてK.8と9である。これらの楽曲は息子の作品に関するレオポルトの個人カタログで、Op.1とOp.2となった。最初の2作品は王女ヴィクトワール・ド・フランスに、後の2作品はド・テッセ夫人に捧げられた。モーツァルトの伝記作家のスタンリー・セイディが述べるところでは、これらの作品はある面においてはかなり子どもっぽく単純なものであるにもかかわらず、使用されている技巧は「驚くほど確かなもので、思考の流れは明快かつ流麗、形式感は非の打ちどころがない。」 パリ滞在中にロンドン行きの決断が下された。おそらく、レオポルトの音楽上と宮廷での知人がイングランドへの渡航を勧めたのに乗る形であったと思われる。モーツァルト学者のニール・ザスローの言によれば、イングランドは「大陸から訪れた音楽家を熱狂的に迎え、破格の報酬を支払うことで知られて」おり、レオポルトへなされた助言もそのような趣旨であったことだろう。4月10日にカレーから貸切船で旅立った一行は、不快な船旅の末にドーヴァーで下船、幾分遅れながらも4月23日にロンドンへ到着した。
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