ハート=フラー論争
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1958年、ナチス支配と法実証主義の関係性を指摘したラートブルフの見解をめぐり、1958年のハーバード・ロー・レビュー誌上で論争が始まった。論争の口火を切ったのは、ハートの論文「実証主義および法と道徳の分離」であった。その内容は概ね次のとおりであり、法と道徳を明確に分離するものであった。 法実証主義の根本テーゼたる「在る法」と「在るべき法」の峻別(=「法」と「道徳」の峻別)は、第二次世界大戦後の自然法論の復活により劣勢に立たされている。ラートブルフは自然法論に転向し、法実証主義(=「法律は法律だ」とする)がナチス支配を招いたと論じた。しかし、ナチスの邪悪な法を批判するならば、「不正な法は法ではない」という論じ方よりも、「法ではあるが、道徳的にあまりに不正なものであり、それゆえ服従することも適用することも不可能である」という論じ方をすべきある。なぜならそのほうが、道徳的立場からの実定法批判の余地を残す点でより誠実であるし、何より法と道徳を混同することは法の神秘化をもたらし、それこそ危険だからである。たしかに、法制度の多くは「自然法の最小限の内容(=minimum content of natural law)」を含んでいるが、これによってナチスが行ったような邪悪な行為を阻止するのは不可能である。 これに対し、フラーは同年の論文「実証主義および法の内在道徳――ハート教授への返答」および1964年出版の『法と道徳(The Morality of Law)』において、「法の内在道徳(internal morality of law)」の観念を武器にハートを批判した。その概略は次のとおりであった。 法と道徳の関係を把握するにあたっては、実定法を導く外在道徳としての自然法の面だけでなく、法と呼ばれるものが必ず含んでいなければならない道徳的要素、すなわち「法の内在道徳」の面も考えるべきである。具体的には、(i)一般性(=誰に対しても適用されること)、(ii)公布(=公布によって広く人々に知らされること)、(iii)将来効(=公布後にのみ発効し、遡及しないこと)、(iv)明瞭性(=誰にでも理解できる明瞭な表現で書かれていること)、(v)論理的首尾一貫性(=相互的で論理的に矛盾がないこと)、(vi)遵守可能性(=遵守不可能なことを要求していないこと)、(vii)恒常性(=むやみに変更されないこと)、(viii)公権力の行動と合致していること、の八原理である。これらは法の根本的要請であり、伝統的な実体的自然法ではないが、一種の手続的自然法として、立法者・裁判官の理想を示すだけでなく、法システムの存立と作動に不可欠な条件をも示しており、これらの八原理のどれか一つでも全面的に損なわれると、もはや「法」のシステムではなく、市民の遵守義務もなくなる。 ハートは「ナチスの法も法であることに変わりはない」と主張するが、ナチス法は遡及法令や秘密法令を頻繁に活用し、都合が悪ければ自ら制定した法さえ無視した点で、以上のような要請を決定的に欠いており、「法」システムが存在しなかった。ドイツ法実証主義は「法の内在道徳」を一切省みなかったため、その当然の帰結としてナチス支配体制に至ったのであり、その意味でラートブルフの見解は妥当であり、少なくとも法と道徳の緊張関係についてよく理解していた。 フラーはこの反論で、「法の内在道徳」が完全に無視されていた状況では法システム自体が存在せず、個々の法律の遵法義務もなかったとして処理することができる、という見解を示したのであった。そして、ハード・ケース(=法解釈が分かれていたり、判例変更が求められる「難しい事件」)における法の解釈問題において、法解釈とは法の支配を目指す「目的志向的」過程であり、「法の内在道徳」の八原理において中枢的位置を占めている点を強調した上で、ハートの理論は全く役に立たないと批判した。 この論争は、「不正な法は法ではない」という論じ方と「法ではあるが、道徳的にあまりに不正なものであり、それゆえ服従することも適用することも不可能である」という論じ方のいずれが抵抗の論理として有効か、という観点からではなく、いずれの立場が法という現実を適切かつ全体的に捉えているか、という観点から評価すべきである。このように見ると、ハートの議論は論理的明晰さを追求するあまり論点が単純化される傾向があり、対してフラーは常に現実の法律問題を解決する原理を求める、という法律家の態度をもって問題の分析を進めていると言える。また、他方から見れば、フラーは法制度に備わる道徳こそ法の基礎であると主張するのに対し、ハートは、法制度がたまたま含む道徳を強調することが「法の自立性」を損なうと主張しているのであり、「法の存在意義」を問う論争であったとも言えよう。 論争自体は最後まで平行線をたどったまま決着しなかったが、その後の「法と道徳」の関係をめぐる理論に決定的な影響を与えた点で、法思想史的に重要な位置を占めることとなった。
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