ハッラーンの統治と地位
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 19:48 UTC 版)
「アッシュル・ウバリト2世」の記事における「ハッラーンの統治と地位」の解説
アッシリアの伝統では、王はアッシリアの国家神アッシュルによってアッシュル市における新年祭で任命されるものであった。アッシュル市のアッシュル神殿で戴冠した最後の王はシン・シャル・イシュクンであり、前614年に同市が破壊されたことで、伝統的なアッシリアの戴冠式を行うことは不可能になった。そのため、代わりに彼は前612年の末に、ハッラーンにあった月神シンの神殿で戴冠を受けた。シンもまたアッシリアの重要な神であった。アッシリアはハッラーンでなお存続し、アッシュル・ウバリト2世はアッシリア軍の残党をここに集結させた。 正式な即位名としてアッシュル・ウバリト(Aššur-uballiṭ)が選択されたのは恐らく非常に意識的なものであった。この名前は「アッシュルは生き続ける」という意味であり、即ちアッシリアの主神アッシュルとその帝国が最終的には敵との戦いに勝利を収めることを示唆していた。この名前はまた、遥か昔の前任者である前14世紀の同名の王アッシュル・ウバリト1世と彼を結び付けた。アッシュル・ウバリト1世は当時の伝統的なアッシリアの統治者の称号であったイシアクム(išši’ak、総督、副王)という古い宗教的な称号を放棄し、絶対君主としての役割を示すシャルム(šarrum、王)という称号を採用した最初のアッシリアの支配者であった。 アッシュル・ウバリト2世はシン・シャル・イシュクンの後継者となり、バビロニアの年代記ではアッシリア王として言及される。バビロニア人は彼をアッシリア王と見ていたが、アッシュル・ウバリト2世の統治下にあった臣下たちは伝統的な戴冠式を執り行えていなかったが故に、彼を王とはせず単に王太子と見なしていた可能性がある。このことは現存する文書から推測できる。このような文書には、ドゥル・カトリンム(英語版)から見つかった次のような法的文書などがある。 .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}近臣(ša qurbūte)たるシャル・ヌリが[欠落]・イサルに対して起こした訴訟。同様に近臣たる[欠落]軍団司令官(rab kiṣri)・シン・シュム・[欠落][欠落]彼らの女性[欠落]。この合意に異議を唱える者は誰であれ、[欠落]彼の法的な敵となる。王太子の誓約において報復を求める。彼は銀10マナを支払う。28日、テベツの月、リンム・Se’-ila’iの年。証人、この都市の長(bēl āli)イアディ・イル(Iadi’-il)。証人、シュルム・シャリ(Šulmu-šarri)の子ナブー・ナツィル(Nabû-naṣir)。証人、ナブー・エティル(Nabû-eṭir)の子シャル・エムランニ(Šarru-emuranni)。証人、シャルマヌ・レフツ・ウツル(Salmanu-reḫtu-uṣur)[訳語疑問点]。 アッシリアでは各年をそれぞれその年のリンム(紀年官)職にある人物の名前で呼んだ。この法的文書で使用されたリンム年名"Se’-ila’i"はこの史料中のみ登場する。このことはアッシリアの中核地帯(アッシュルの地)が侵略者によって奪われた後、中央権力が存在しない中で、リンム年名が地方化し、しばしば単一の都市に限定されて使用されるようになったことを示す。ナブー・ナツィルの父親として登場するシュルム・シャリは10年以上前のアッシュルバニパルの治世の日付を持つ碑文にも登場する。この文書中ではša qurbūte(英訳:Companion、近臣、文字通りには「王に近き者」の意)やrab kiṣri(英訳:cohort commander、軍団司令官)といった伝統的なアッシリアの称号が使用されているが、これはこうした称号が未だ伝統的な重要性を帯びていたことを示す。この文書はまた、現地の支配者イアディ・イルをbēl āli(英訳:city load、都市の長)という称号で呼んでいる。この称号はかつてはアッシリアの王族の構成員にのみ関連付けられていた。非王族が都市の総督としての役職に任命される際には通常、ḫazannu(通常「市長(mayor)」と訳される)またはša muḫḫi āli(「都市監督官」の意)という称号が用いられ、bēl āliという称号がここで使用されていることはアッシリアの行政的なフレームワークの一部がもはや機能しなくなったことを示している。 アッシュル・ウバリト2世の地位について重要なこの文書中の部位は「王太子(adê ša mar šarri、"mar šarri")の誓約」への言及である。このフレーズは法的文書では一般的であり、エサルハドン王治世中の前672年に使用されて以来頻繁に登場するが、常に「王の誓約(adê ša šarri)」の形を取る。つまり「王太子の誓約」というフレーズは王位が空位であり、代わりにその役割を果たしていたことを示している。この時の碑文にはアッシリア軍の最後の総司令官であるナブー・マール・シャリ・ウツル(Nabû-mar-šarri-uṣur)の名前も記録されている。彼の名前は「ナブー神よ、王太子を守り給え」という意味である。このような名前はアッシリアでは一般的であったが、通常は王太子ではなく王を構成要素とする。これはドゥル・カトリンムの法的文書と同じくアッシリアが王ではなく王太子の統治下にあったことを示す。 正式な称号が王太子であったとしても、アッシリアの史料はアッシュル・ウバリト2世の王位に対する主張に異議が唱えられていたのではなく、単に彼が公式に伝統的な戴冠式を執り行うことができなかったことだけを示している。王太子の即位には全ての臣下と主神アッシュルの正式な承認が必要であった。王がその義務を果たすことができない場合、王太子が法的資格を持つ代理人であり、王と同じ法的・政治的権力を行使した。アッシュル・ウバリト2世はアッシリアとバビロニアの双方の史料が示すように、アッシリアの正統な統治者であると認識されていたが、彼の支配は未だ、宗教的視点においては本来の戴冠式を執り行うまでの暫定的なものという取り扱いであった。
※この「ハッラーンの統治と地位」の解説は、「アッシュル・ウバリト2世」の解説の一部です。
「ハッラーンの統治と地位」を含む「アッシュル・ウバリト2世」の記事については、「アッシュル・ウバリト2世」の概要を参照ください。
- ハッラーンの統治と地位のページへのリンク