ハッラーンの陥落と再占領の試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 19:48 UTC 版)
「アッシュル・ウバリト2世」の記事における「ハッラーンの陥落と再占領の試み」の解説
詳細は「ハッラーンの陥落(英語版)」および「ハッラーンの包囲(英語版)」を参照 前612年にアッシュル・ウバリト2世がアッシリアの支配者となった時、彼の主たる目標はアッシュルとニネヴェを含むアッシリアの中核地帯(アッシュルの地)の奪還にあった。エジプトとマンナエというこの地域の二つの指導的軍事勢力との同盟によって強化された彼の軍隊がこの目標を達成できるに違いなく、彼のハッラーン拠点化と王太子としての地位(正式に即位した王ではないが)は、単なる一時的な後退に過ぎないと考えられていたかもしれない。だが、実際には、アッシュル・ウバリト2世のハッラーン統治はアッシリア帝国の最終段階であり、この時点で既に、帝国の運命は風前の灯火であったと言える。 前611年、ナボポラッサルの軍勢は北部メソポタミア全域の支配権を固め、ついにハッラーン国境まで進んだ。ナボポラッサルが自ら征服したばかりのアッシリアの中核地帯を巡幸した後、メディア・バビロニア連合軍は前610年11月にハッラーンに対する遠征を開始した。ナボポラッサルの接近によって脅威に晒されたアッシュル・ウバリト2世と援軍のエジプト人部隊はハッラーンからシリアの砂漠へと逃亡した。ハッラーンの包囲は前610年の冬から前609年の初頭まで続き、最終的に同市は降伏した。 ナボポラッサルがハッラーンを支配下に置いた3ヶ月後、アッシュル・ウバリト2世とエジプト兵の大軍はハッラーンの奪回を試みたが、これは悲惨な失敗に終わった。アッシュル・ウバリト2世によるハッラーンの包囲は前609年の6月か7月の始めに開始され、2ヶ月後の8月か9月まで続いた。しかしナボポラッサルが再び軍を率いてハッラーンへ戻ると、アッシュル・ウバリト2世とエジプト軍は後退した。実際には彼らの退却はもっと早かった可能性もある。前609年のアッシュル・ウバリト2世によるハッラーン奪回の失敗は古代アッシリア王国の終焉を示すものであり、この後、アッシリアが復活することは二度となかった。
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