ノーベル平和賞をめぐって
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/12 18:45 UTC 版)
「佐藤栄作」の記事における「ノーベル平和賞をめぐって」の解説
1974年のノーベル平和賞受賞は、上記の通り非核三原則の制定などが評価されてのものであった。この受賞には国連大使だった加瀬俊一によるロビー活動が寄与したといわれており、佐藤も日記の中で加瀬への謝意を表している。元外交官で自民党の元参議院議員鹿島守之助(鹿島建設会長)もこの受賞工作に関与した。しかし、平和賞を選考するノルウェーのノーベル平和賞委員会は、2001年に刊行した記念誌『ノーベル賞 平和への100年』の中で、「佐藤氏はベトナム戦争で、米政策を全面的に支持し、日本は米軍の補給基地として重要な役割を果たした。のちに公開された米公文書によると、佐藤氏は日本の非核政策をナンセンスだと言っていた」と記し、受賞理由と実際の政治姿勢とのギャップを指摘した。この記念誌はノルウェーの歴史家3名による共同執筆で、同年8月の出版記念会見の際にその1人のオイビン・ステネルセンは「佐藤氏を選んだことはノーベル賞委員会が犯した最大の誤り」と見解を述べて当時の選考を強く批判し、「佐藤氏は原則的に核武装に反対でなかった」と語ったという。 この報道に対して次男の佐藤信二は「受賞当時は一部から抗議を受けたが、それは誤解で父は真の平和主義者だった。非核三原則を打ち出したのは佐藤内閣であり、受賞はその点を評価された。父は受賞したとき『佐藤個人ではなく、国がもらったものだ』と語っている」とコメントした。ただし上記の通り、2009年(平成21年)に、沖縄への核持ち込みに関する密約の合意文書が佐藤家に保管されていたことが明らかになった。さらに、2010年(平成22年)10月に『NHKスペシャル 核を求めた日本』において、佐藤内閣下で、極秘に核保有は可能か検討が行われていたことが明るみに出た。西尾幹二は、佐藤が核武装論から変節し、「アメリカに日本国を売って」ノーベル平和賞を得たことが日本の保守政権を堕落させた、と批判している。 佐藤はノーベル平和賞の受賞記念講演の原稿を作成した際に、助言を求めた学者(高坂正堯・梅棹忠夫ら)の意見を入れて「非核三原則を世界各国も導入することを望む」という内容の一節を入れたが、最終的に削除した。これについて上記『NHKスペシャル』では、佐藤が最終稿を作る前に、来日したアメリカ国務長官のヘンリー・キッシンジャーと面談した影響を指摘している(キッシンジャーは、「何をとぼけたことを言い出すのか」と反発したという)。ちなみに西尾幹二はこの件について、「キッシンジャーは彼(注:佐藤)の前に立ち塞がるアメリカの『意志』そのものであり、ノーベル平和賞とはアメリカの政治意志の一道具である」と論じ、佐藤が削除した上記の一節を「日本を核大国の仲間に入れないのならお前たちだけ勝手なことはさせたくない、と一発かましたい思いからだったのかもしれない」と評し、核武装論者としての佐藤のせめてもの抵抗だったのではないか、と論じている。 この1974年(昭和49年)11月19日に元赤坂の迎賓館で行われた佐藤・キッシンジャー会談の具体的内容は、佐藤がキッシンジャーに、「もし可能なら、核兵器の先行使用の放棄を話し合うため、核保有5か国が集まるよう受賞講演で提案しようと考えている」と述べ、すべての国が核兵器の先行使用を放棄する方向への提起を授賞式講演「核時代の平和の追求と日本」に盛り込みたい意向を伝えたが、キッシンジャーは、「米国はそうした話し合いへの参加を拒んでいる唯一の国だ」と答え、「米国が核兵器の先行使用を放棄したら、それは日本にとって危険だ」として、ソ連と中国の軍事的脅威を理由に拒んだ。 キッシンジャーは、「ソ連は欧州の国々を上回る兵力を、中国も隣国を上回る兵力を持っている。核兵器がなければ、ソ連は通常兵力で欧州を蹂躙できます。中国も同様です」という見解を示し、翌日の中曽根康弘との会談でも、もしも米国が非核国への核使用を放棄すれば、ソ連の東欧の同盟国にも使用できなくなるとの懸念を示して、中曽根がNPTに関連して発した「米ソは非核国に核兵器を使ったり、核兵器で脅迫したりしないと確約できますか」という要求を拒んだ。 なお、ベトナム戦争支援政策、中国敵視外交などを進めた佐藤の受賞を疑問視する意見もあり、フランスの『ル・モンド』紙は「驚くべき、異議のある決定」と批判している。
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