ドイツに対する提示と交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:30 UTC 版)
「ヴェルサイユ条約」の記事における「ドイツに対する提示と交渉」の解説
4月18日、ドイツに対して代表団派遣が招請され、ブロックドルフ=ランツァウを首席とするドイツ代表団は4月29日にパリに到着した。5月7日午後、外務省付近のトリアノンホテルで条約案を提示された。ドイツ側には文書による意見を述べる14日間の回答期限が設定されていた。口頭での交渉は許されていなかったが、ブロックドルフ=ランツァウはその場で着席したまま戦争責任条項に対する抗議を行い、ロシアの動員こそが世界大戦に至る原因であったと主張した。しかし、この態度は連合国首脳によい印象を与えなかった。 条約案を受け取ったドイツでは激しい反発が起こった。5月12日にはシャイデマン首相が、18日にはエーベルト臨時大統領が受け入れられないと声明した。代表団も次々と覚書を連合国に送付したが、5月10日に連合国は基本的方針を堅持すると伝達した。ブロックドルフ=ランツァウが特に問題としたのは戦争責任を定めた231条(英語版)(戦争責任条項、英: War Guilt Clause)であり、交渉決裂も辞さない構えであったが、エルツベルガーら一部の閣僚は交渉決裂は戦争につながると危惧していた。ドイツ側は反対提案をまとめ、5月29日に提出したが、その内容は以下のようなものであった。 ドイツ側提案の講和案と意見 賠償金上限を無利子1000億金マルク、1926年5月1日までに200億金マルク支払う ただし賠償支払いは1914年時点でのドイツ領土維持を条件とするエルザス=ロートリンゲン(アルザス=ロレーヌ)の支配権は放棄するが、帰属先を決める住民投票を要求する ポーゼン州のうち、明らかなポーランド人の居住地域については割譲する。ポーランドの「海への出口」はヴィスワ川の自由通航と、メーメル・ケーニヒスベルク・ダンツィヒを自由港とすること等で達成させる フランスの炭鉱が復旧するまで石炭を提供する シュレースヴィヒについては住民投票で帰属を決定する オーストリアおよびベーメン(ボヘミア、特にいわゆるズデーテン地方)のドイツ人についても民族自決権が適用されることを期待する (手交された講和条約案に)従いながら、経済を再建することなど不可能である。「かくて国民全体が自らの死刑判決に署名しなければならないのである」 三首脳やフォッシュ元帥はドイツ側が条約を拒否すれば、最終目標をベルリンとする戦争を再開する構えであった。ドイツ側の反発だけではなく、イギリス・アメリカのマスコミ等も過酷であると批判した。しかしウィルソンやクレマンソーはドイツ側の意見に対してもなんら考慮する姿勢を見せなかった。一方でロイド・ジョージはイギリス帝国内部の首脳やイギリス世論が条約への反発を強めたことと、ドイツ側が拒否する公算が高まってきたことから、譲歩に傾き始めた。6月1日にイギリス帝国戦時内閣の緊急閣議が開かれ、ドイツ側に譲歩する必要があるかを協議した。南アフリカ外相のヤン・スマッツら閣僚はドイツに譲歩するべきであると主張し、東部国境・占領期間・ドイツの国際連盟への加入・賠償の一定額固定への変更の4点について、ドイツ側に譲歩する提案を四人会議で交渉する権限がロイド・ジョージに与えられた。6月2日の四人会議でロイド・ジョージは譲歩を主張したが、原則主義者であるウィルソンとクレマンソーはロイド・ジョージの変節に怒り、協議は難航した。6月14日に四人会議の議論は決着し、ザールやオーバーシュレージエン(ドイツ語版)(上シレジア)の譲渡が住民投票に変更される等の細部の譲歩が行われることとなった。 6月16日、ドイツ側の所見に対する回答が行われたが、この日に三首脳はドイツが条約締結を拒否すればベルリンまで攻撃するという案の確認を行った。ところがフォッシュは現状では三首脳が期待するような攻勢の準備は出来ないと発言したため、三首脳はフォッシュの責任を激しく追及した。
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