ドイツによる救出
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「ベニート・ムッソリーニ」の記事における「ドイツによる救出」の解説
詳細は「グラン・サッソ襲撃」を参照 一方、ローマ近郊の情勢が不穏当になったことからムッソリーニの身柄はティレニア海から移され、イタリア中部のラクイラ県とペスカーラ県に跨るグラン・サッソ山頂のホテルへ新たに幽閉された。ヒトラーは進駐と同時にムッソリーニの救出を軍に厳命していたが、ティレニア海の島々に滞在していた時に計画された作戦は一歩遅く身柄が移送されてしまったために失敗に終わっていた。ドイツ軍のクルト・シュトゥデント上級大将はグラン・サッソへの移送情報を新たに掴むと、1943年9月13日に救出作戦「柏(オーク)」を実施した。グラン・サッソに駐留していたのは主に警察やカラビニエリ(国家憲兵)の部隊だったが、休戦に従って連合軍に引き渡すべきなのか、それとも王国政府を見限って釈放すべきなのか決め兼ねている状態にあった。そんな折にオーク作戦によって出撃したハラルト・モルス空軍少佐が率いるドイツ軍の特別部隊がグライダーでグラン・サッソに降下、ホテルへ突入した。あらかじめ王国政府を離反してドイツ軍側に協力していた警察司令官フェルナンド・ソレツィ(イタリア語版)が投降を呼びかけていたこともあり、警護部隊は抵抗せず武装解除された。 救出されたムッソリーニの護衛役を務めたのは軟禁先の調査に功績のあったオットー・スコルツェニー武装親衛隊大尉であった。面会したスコルツェニーが「ドゥーチェ!我がフューラーの命により救出に参りました!」と敬礼すると、ムッソリーニは「友人が私を見捨てないことは知っていたよ」と抱擁を交わしている。スコルツェニーはムッソリーニの印象について以前より痩せていたが、独裁者としての威厳が保たれていたと回想している。救出されたムッソリーニは本来なら小型ヘリコプターであるFa223に乗って先に脱出する手はずだったが、Fa223の故障から小型飛行機のFi156に急遽乗り換えて脱出することになった。ドイツ領へと逃れたムッソリーニは東プロイセン州ラステンブルクの総統大本営(ヴォルフスシャンツェ)へ護送された。 救出作戦成功後、ヒトラーはドイツに亡命していたムッソリーニの次男ヴィットーリオ・ムッソリーニを大本営に招き、片言のイタリア語で父親の無事を伝えたという。
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