ドイツによる侵略期
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1941年6月22日のヒトラーによるソビエト連邦への侵略(バルバロッサ作戦)後、ソビエト指導部はソビエト連邦の西部地域からすべてのドイツ民族を立退かせることを決定した。 最高会議は最初の立退きを命令した。だが、決して戻る事は許されなかったので、事実上追放だった。クリミアからすべてのドイツ民族を追放するための行動は1941年8月15日に始まった。 命令には老人は立退かせてはならないとあったが、すべての人が追放された。最初はスタヴロポリへ、続いて南東ウクライナのロストフ・ナ・ドヌへ、だが最後に全員が収容所かカザフスタンの特別入植地(special settlements)に送られた。 追放される者達には荷造りに3-4時間しか与えられず、どこへ向かうのか、どのぐらいの期間留まるのか、どのぐらいの食料が必要か、教えられる事はなかった。多くの者にとって結果は飢餓だった。しかも、混乱のせいで多くの家族がバラバラになった。この時、総計でおよそ6万人のドイツ民族がクリミアから追放された。 黒海ドイツ人の大多数はドイツ軍の迅速な侵攻のおかげで立退きを免れたが、スターリンはそれでもドニプロ川の東に居住するドイツ系を逮捕・追放するのに十分な時間を持っていた。1941年9月25日から10月10日までの期間10万5000人のドイツ民族がこの地域から追放された。 ソビエト政府が1941年8月15日から12月25日までに、 シベリアと中央アジアへ追放した総数で言えばドイツ系ロシア人85万6000人だった。 この数字には共産党とコムソモールのメンバーが数多く含まれている。 枢軸国は戦争開始後数ヶ月間でソビエトの領土を素早く占領したため、ソビエト政権は国土の西部から大半のドイツ民族を立退かせることができなかった。西ウクライナ、ヴォルィーニ、および黒海地域のドイツ系住民の町と村はすべてナチス・ドイツの支配下(当初は軍政その後はナチス党か親衛隊)に置かれた。
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