ドイツにおける試み
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/16 03:27 UTC 版)
1925年にグライダーの発達が進んだドイツにおいて、グライダー協会であったRhön-Rossitten-Gesellschaftが100mの人力飛行に4000マルクの賞金を懸けた。グライダーの開発者らが人力飛行機の開発を行い、当時の人力飛行の最長記録となる20mの飛行に成功したが、100mには届かず、獲得者は現れなかった。 また、飛行には至らなかったが、1928年にドイツ人技術者であったエンゲルベルト・ゼシカ(Engelbert Zaschka(英語版))が単葉で牽引式プロペラを備えた人力飛行機を製作した。この人力飛行機は張線と鋼管を用いて翼幅20mに及ぶ高いアスペクト比の主翼を実現しており、後の人力飛行機に通じる構造を持ったものであった。しかしながらこの機体は4人の力で所定の飛行予定速度まで加速させても浮上することはなかった。 その後、1933年になってフランクフルト工業会(Frankfurter Polytechnische Gesellschaft)が500m離れたパイロンを周回する人力飛行に5000マルクの賞金を懸けた。この賞に対してしばらく挑戦者は現れなかったが、1935年にヘルムート・ハスラー(Helmut Hässler)とフランツ・フリンガー(Franz Villinger)が開発したHV-1ムフリ(HV-1 Mufli(ドイツ語版)/Muskel Fliegerの略。英語の"Human powered flyer"に相当。)が挑戦した。1935年8月30日、公式記録会でゴムカタパルトによって離陸したムフリは235mの飛行に成功し、課題未達成ながらも3000マルクの賞金を獲得した。これにより本来の賞金は10000マルクに増額された。ムフリは様々な援助を受けて改良が加えられ、より強力なパイロットを起用し、1937年7月4日には最長となる712mの飛行に成功するも本来の課題を達成することはできなかった。
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