ドイツにおける猟兵
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 08:06 UTC 版)
1744年、プロイセン国王フリードリヒ2世が七年戦争で狙撃兵として活躍したオーストリアのクロアチア人辺境兵(Grenzers)に感銘を受け、創設したのがはじまりである。 猟兵はドイツ語で Jäger と書き「イェーガー」と読む。当時のドイツは16世紀に発明されたライフル銃(江戸時代後期の日本では蘭語でヤーゲル銃と呼ばれた)の製造技術を継承するマイスターたちが工房を構える数少ない地域であり、その製造技法はギルドによって保護されていたため、多くの欧州諸国がドイツ製ライフル銃と、その使用に長けたドイツ人傭兵を自軍の猟兵・狙撃兵として配備していた。 ライフル銃製造技術はドイツ人移民を通じて新大陸にももたらされ、アメリカ独立戦争においては、英軍に雇われたドイツ人傭兵(Hessian)と大陸軍に加わったドイツ人移民たちの民兵が、互いに猟兵としてライフル銃で戦うことになった。 ライフル銃は戦列歩兵の用いるマスケット銃(ゲヴェール銃)に比べて、命中精度は格段に高いが、再装填に時間がかかるため、戦列歩兵のように隊列を組んで前進して目標に対し一斉射撃を繰り返し、銃剣による白兵戦で決着を付ける戦術よりも、散開して個々の判断で射撃を行って敵の士官や砲兵を狙撃し、戦列歩兵の突撃を側面支援する戦術に運用されていた。 猟兵は戦列歩兵の側面支援の他に、敵軍の後方撹乱、山岳戦、狙撃、偵察をも任務としていた。当時のプロイセンには“シュッツエン”(単数形はシュッツェ、射手や銃兵を意味する)と呼ばれる狙撃兵も同時に存在したが、これが散兵任務のほか密集戦闘にも携わったのに対し、猟兵はあくまで散兵専門の部隊として扱われた。プロイセン軍において猟兵は数が少なく、1806年の戦役でいったん消滅した。 ドイツ連邦軍はプロイセン陸軍の伝統に倣って軽歩兵のことをイェーガーと呼び、降下猟兵(ファルシルムイェーガー、空挺兵)、山岳猟兵(ゲビルクスイェーガー、山岳兵)、装甲擲弾兵(パンツァーグレナディーア、機械化歩兵)に不向きな地形での運用を重視した猟兵(イェーガー、軽歩兵)の三種類を保有する(例:ドイツ特殊作戦師団第31空中機動旅団第311降下猟兵大隊(Fallschirmjägerbataillon 311)、ドイツ第23山岳猟兵旅団(Gebirgsjägerbrigade 23))。その他、憲兵(ドイツ語版)もフェルトイェーガー(Feldjäger)と呼称される(直訳は「野戦猟兵」。ドイツ語で憲兵を示す単語はMilitärpolizei(軍事警察)やFeldgendarmerie(野戦憲兵)であるが、連邦軍の兵科名としては当初のMilitärpolizeiを経てFeldjägerが採用された)。
※この「ドイツにおける猟兵」の解説は、「猟兵」の解説の一部です。
「ドイツにおける猟兵」を含む「猟兵」の記事については、「猟兵」の概要を参照ください。
- ドイツにおける猟兵のページへのリンク