ドイツによる圧力
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 16:08 UTC 版)
だが、国際情勢は推移し、ドイツ側に有利な情勢となった。1935年に英独海軍協定が結ばれて以降、イギリスはヒトラーとの「宥和政策」を外交の基本路線とするようになった。イタリアもまたエチオピア侵攻による国際的な孤立から、ドイツと協調するベルリン・ローマ枢軸路線に転換し、オーストリア問題から手を引きつつあった。これを好機とみたヒトラーはシュシュニックに対して攻勢に出た。1936年7月11日、独墺協定が結ばれ、表面上はドイツはオーストリアの独立を認めるとしながらも内実はオーストリア・ナチスへの恩赦と政治参加を容認させるものとなった。さらに護国団の指導者であるエルンスト・シュターレンベルクがこの協定に反対すると、11月にシュシュニックは護国団を解散させた。 1938年2月12日にベルヒテスガーデンでヒトラーとシュシュニックは会合を行い、ヒトラーはオーストリアを保護下に置くための幾つかの要求を行った。ヒトラーの要求は到底受け入れられるものではなかったが、結局シュシュニックは2月18日にオーストリア・ナチスに転向していたアルトゥル・ザイス=インクヴァルトを内務大臣に任命する。だが、既にオーストリア国内ではオーストリア・ナチスが公然と政府打倒とドイツへの併合を求める動きを開始していた。 シュシュニックには、奥の手として暖めておいた秘策があった。それは国民投票を実施してオーストリア国民に「ドイツとの合併」か「自主独立」か選択させ、正面からヒトラーの要求を拒絶することであった。ドルフス前首相暗殺以来のドイツ側による様々な圧力に国民の反感が高まっており、実施されれば「自主独立」の選択が確実であった。更にかつてドルフスが非合法化したオーストリア社会民主党とも極秘に交渉し、国民投票への協力と引き換えに非合法化の取消を約束した。 これを知ったヒトラーは激怒して国民投票の中止とザイス=インクヴァルトへの首相職移譲を要求する一方、3月10日にオーストリア制圧作戦『オットー』を発動した。3月12日にドイツ国防軍を越境させ、実力でオーストリア国土を占領する計画であった。この情報はオーストリアに漏れ、政府に衝撃を与えた。3月10日午後4時、シュシュニックは国民投票の中止と総辞職に追い込まれ、「屈服」の意をラジオで放送した。シュシュニックはザイス=インクヴァルトを後継に推薦したが、ミクラスは承認を渋った。しかし、「屈服」放送に勢いづいた各地のオーストリア・ナチス党員は、ウィーン、リンツ、グラーツ、インスブルックなどの地方政府の施設にハーケンクロイツ旗を掲揚するなどした。この間ドイツはザイス=インクヴァルトに「派兵要請」を打電するように迫り、ザイス=インクヴァルトは午後9時45分に派兵要請を打電させた。12日になる少し前、ミクラスはついにザイス=インクヴァルトを首相に指名した。
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