テンプルスクール
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 02:59 UTC 版)
「ルイーザ・メイ・オルコット」の記事における「テンプルスクール」の解説
1835年にボストンでブロンソンは、革新的な教育家であるエリザベス・パーマー・ピーボディの援助で、一般にテンプルスクール(英語版)として知られる人間文化学校を創設し、規律と相互を尊重する空気の中で開放性と自己表現を重んじ、子供の内なる神性を目覚めさせる教育を行おうとした。1835年に三女が生まれ、後援者の名前から三女の名前はエリザベス・パーマーとなった(愛称リジー)。エリザベスが生まれるまでに、ブロンソンの興味は、娘たちの日常の活動を記録することから、魂を探求することへと移行していた。 オルコットはこの学校に通い、教育を受けている。ディベート風の「会話」という生徒が考えて答える授業があり、現在でもその先進性を賞賛する人のある教育法だが、これは「知性」ではなく「徳性」の育成を目的とするもので、生徒が出した様々な答えのうち、ブロンソンの考えに合った答えを正しいと認めるもので、質問や自由な会話は禁止されていた。協働者のピーボディは、この教育法が一見生徒が考えているように見えて、教師に暗に操られ、教師が求める答えを探しているだけという危険性を懸念しており、吉田のぶ子は彼の教育法の洗脳的側面を指摘している。この頃はブロンソンが忙しく、娘たちは母アッバとの結びつきが強かった。ブロンソンは娘たちに、良心の大切さと、良心とはいつも「いい人」でいられるよう仕向けてくださる神であり、良心に従わない限り幸せにはなれないと教えた。医師の娘であったピーボディは、ブロンソンの、体の病気は悪い行いの結果だとか、医師はお金のために世間を食い物にしているといった考えに同意できず、学校を去り(この決別で、娘のエリザベスの名前から「パーマー」というミドルネームが外された)、後任としてマーガレット・フラーが助手となっている。 テンプルスクールでの先進的な試みは賞賛されたが、その栄光は短命でだった。独自の宗教教育を行ったが、教会がタブーとする「マリアの出産」に触れる性的な内容が含まれるようになり、ブロンソンはピーボディの忠告に反してその教えを1836年末に出版し、新聞や多くの説教壇で非難の嵐が吹き荒れ批判された。また、本来宗教を拠り所とする徳育を行うのは家庭と各宗派の教会であり、ブロンソンの自分の宗教観に基づいた徳育は保護者にとっては越権と感じられた。怒った父兄が学校に押し寄せ、父の首を絞め校舎を焼き払おうとし、5歳のオルコットはこぶしを振り上げて懸命に暴徒を追い払おうとしたという。同時期にオルコット夫妻は、奴隷制廃止運動に参加し始めたばかりの女性社会学者のハリエット・マルティノー(英語版)とトラブルになって学校についての激しい批判を受け、これによりほとんどの裕福な生徒が退学し、黒人の少女を入学させたことが決定打となり学校は終焉した。1840年に四女アビゲイル・メイ(以下メイ)が生まれたが、上の3人と異なり、父親の綿密な監督なしに育った。
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