ソ連介入の決定とは? わかりやすく解説

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ソ連介入の決定

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/24 22:09 UTC 版)

アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」の記事における「ソ連介入の決定」の解説

ヘラートアフガン政府第17軍崩壊したことを受け、1979年3月17日より、ソ連政治局ではアフガン情勢について討議が行われた。しかしレオニード・ブレジネフ不在の中で政治局員達の意見分かれた国防相ドミトリー・ウスチノフKGB議長ユーリ・アンドロポフは「侵略者レッテル確実に貼られることを意識」するとしながら軍事介入主張した。しかし首相アレクセイ・コスイギン政府軍への支援先決であると消極的であり、アンドレイ・キリレンコ明確に反対していた。一方で外相アンドレイ・グロムイコは「いかなる場合でも、アフガンを失うことはできない」としながらも、軍事介入には消極であった。 翌3月18日にはタラキーから、援助なければ政権崩壊するため、アフガン政府軍制服着たソ連軍派遣するよう要請入った。しかしコスイギン発覚確率高くソ連非難を受けるとして拒否した。この日の会議ではデタント流れ非同盟諸国への影響懸念したアンドロポフウスチノフ介入回避傾き19日にはブレジネフこの方針を承認した。 しかし、9月にタラキーがアミーンクーデターによって排除されると、ソ連指導部アミーンに対して不信抱き始めた10月19日にはアミーンアメリカ接触するなど、「バランス外交」を志向している上に政府腐敗していると報告があり、12月にはGRU参謀本部情報総局)の派遣決定された。 12月12日には、アフガン問題グロムイコアンドロポフウスチノフ三人一任する決定が行われ、介入決定行われた見られている。12月26日にはブレジネフ別荘最終確認が行われ、翌12月27日には「アミーン政権腐敗統治能力欠如」「1978年12月ソ連アフガン条約に基づくカールマル軍事援助要請」を主な理由として、本格的な軍事介入開始した介入決定大きな要因として、アミーン政治姿勢1978年以来ソ連勢力失わせる危険があったことが挙げられる1979年12月31日アンドロポフらが政治局提出した報告書では、「四月革命成果我が国安全保障上の利益危険な状態」にさらされているため、軍事介入が必要であるとしている。アフガニスタンソ連にとって要衝であり、アフガン喪失安全保障多大な影響があると考えられた。 また、アメリカ合衆国の軍事支援の影響もあった。当時アメリカ合衆国連邦政府は、パキスタン経由して、非軍事的物資活動資金ムジャーヒディーン提供していた。しかしこれら支援秘密裏進めるように努めており、ソ連との対立姿勢明確にすることは、当時進行していた米ソデタント動きからも不利益判断された。ソ連政府は、武装勢力台頭イスラム国家建国動きに対して強い警戒感持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動き制御する必要性直面していた。 もう一つ要因として、イスラム原理主義動きから発生したイランでのイラン革命挙げられる革命モハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝政府が倒されルーホッラー・ホメイニー中心とする新政府樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。 なぜなら、アフガニスタンイスラム原理主義革命起こればソビエト連邦にも飛び火する危険性あったからである。アフガニスタンでは、イスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタン革命拡大するための宗教的政治的及び経済的な動機十分にあった。これらの意見は、当時ソ連指導者レオニード・ブレジネフが、ソ連は(おそらく連邦内の共和国含め危険にさらされている同盟国救援する権利を持つと宣言したブレジネフ・ドクトリン」によって裏付けられている。その後勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラク援助したのもソ連であったまた、アメリカの外交政策転換重要な要素として挙げられる1978年5月にはワシントンNATO軍事費増大計画決定された。1979年秋にテヘランアメリカ人人質解放のためといい、航空機核兵器など積んだ大量アメリカ軍ペルシャ湾派遣した。冬には本格的なアメリカの軍事拡張計画五ヶ年計画)、ミサイル生産ヨーロッパ配備決定などが下された反ソ目的とした中国とも接近もあり、SALT II批准可能性皆無見られていた。これら緊張緩和放棄政策に、ソ連何かしら応える必要があった。

※この「ソ連介入の決定」の解説は、「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」の解説の一部です。
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