ソ連介入の決定
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「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」の記事における「ソ連介入の決定」の解説
ヘラートのアフガン政府第17軍が崩壊したことを受け、1979年3月17日より、ソ連の政治局ではアフガン情勢について討議が行われた。しかしレオニード・ブレジネフ不在の中で政治局員達の意見は分かれた。国防相ドミトリー・ウスチノフやKGB議長ユーリ・アンドロポフは「侵略者のレッテルを確実に貼られることを意識」するとしながらも軍事介入を主張した。しかし首相アレクセイ・コスイギンは政府軍への支援が先決であると消極的であり、アンドレイ・キリレンコは明確に反対していた。一方で外相のアンドレイ・グロムイコは「いかなる場合でも、アフガンを失うことはできない」としながらも、軍事介入には消極的であった。 翌3月18日にはタラキーから、援助がなければ政権が崩壊するため、アフガン政府軍の制服を着たソ連軍を派遣するよう要請が入った。しかしコスイギンは発覚の確率が高く、ソ連が非難を受けるとして拒否した。この日の会議ではデタントの流れや非同盟諸国への影響を懸念したアンドロポフとウスチノフも介入回避に傾き、19日にはブレジネフもこの方針を承認した。 しかし、9月にタラキーがアミーンのクーデターによって排除されると、ソ連指導部はアミーンに対して不信を抱き始めた。10月19日にはアミーンがアメリカと接触するなど、「バランス外交」を志向している上に政府が腐敗していると報告があり、12月にはGRU(参謀本部情報総局)の派遣が決定された。 12月12日には、アフガン問題をグロムイコ、アンドロポフ、ウスチノフの三人に一任する決定が行われ、介入決定も行われたと見られている。12月26日にはブレジネフの別荘で最終確認が行われ、翌12月27日には「アミーン政権の腐敗と統治能力の欠如」「1978年12月のソ連・アフガン条約に基づくカールマルの軍事援助要請」を主な理由として、本格的な軍事介入を開始した。 介入決定の大きな要因として、アミーンの政治姿勢が1978年以来のソ連の勢力を失わせる危険があったことが挙げられる。1979年12月31日にアンドロポフらが政治局に提出した報告書では、「四月革命の成果と我が国の安全保障上の利益が危険な状態」にさらされているため、軍事介入が必要であるとしている。アフガニスタンはソ連にとって要衝であり、アフガンの喪失は安全保障に多大な影響があると考えられた。 また、アメリカ合衆国の軍事支援の影響もあった。当時のアメリカ合衆国連邦政府は、パキスタンを経由して、非軍事的物資と活動資金をムジャーヒディーンに提供していた。しかしこれら支援は秘密裏に進めるように努めており、ソ連との対立姿勢を明確にすることは、当時進行していた米ソデタントの動きからも不利益と判断された。ソ連政府は、武装勢力の台頭やイスラム国家建国の動きに対して強い警戒感を持っており、これらの武力化の恐れがある政治的な動きを制御する必要性に直面していた。 もう一つの要因として、イスラム原理主義の動きから発生した、イランでのイラン革命が挙げられる。革命でモハンマド・レザー・パフラヴィー皇帝政府が倒され、ルーホッラー・ホメイニーを中心とする新政府が樹立された。このことはソ連にとって脅威であった。 なぜなら、アフガニスタンでイスラム原理主義の革命が起これば、ソビエト連邦にも飛び火する危険性があったからである。アフガニスタンでは、イスラム原理主義の声も上がっており、革命後のイランには、北のソ連や東のアフガニスタンに革命を拡大するための宗教的、政治的及び経済的な動機が十分にあった。これらの意見は、当時のソ連の指導者レオニード・ブレジネフが、ソ連は(おそらく連邦内の共和国を含め)危険にさらされている同盟国を救援する権利を持つと宣言した「ブレジネフ・ドクトリン」によって裏付けられている。その後勃発したイラン・イラク戦争において、最も強力にイラクを援助したのもソ連であった。 また、アメリカの外交政策の転換も重要な要素として挙げられる。1978年5月にはワシントンでNATOの軍事費増大計画が決定された。1979年の秋にはテヘランのアメリカ人人質解放のためといい、航空機や核兵器など積んだ、大量のアメリカ軍をペルシャ湾へ派遣した。冬には本格的なアメリカの軍事拡張計画(五ヶ年計画)、ミサイルの生産とヨーロッパ配備の決定などが下された。反ソを目的とした中国とも接近もあり、SALT II批准の可能性は皆無と見られていた。これら緊張緩和放棄政策に、ソ連も何かしら応える必要があった。
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