スロベニア語文化の萌芽
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「スロベニアの歴史」の記事における「スロベニア語文化の萌芽」の解説
19世紀に入るとジーガ・ツォイス男爵が登場するが彼はスロベニア人を母に持ちリュブリャナ中心部近郊の邸宅でスロベニア語振興に活躍した。彼はオペラや演劇の愛好家であったが、外国作品をスロベニア語へ翻訳し脚色したものを上演、1789年12月には「粉引き小屋(Die Feldmühle)」を「市長の娘(sl)」としてまた、1781年には「フィガロの結婚」を「吉日またはマティチェクの結婚(sl)」(ただし、検閲に引っかかったため1884年まで上演されなかった)が導入された。また、この脚色を行ったアントン・リンハルト (en) は未完に終わりはしたものの「カルニオラ及びオーストリアの南スラヴ人居住地域の歴史的考察(Versuch einer Geschichte von Krain und den übrigen Ländern der südlichen Slaven Oestérreiches)」を著している。また、詩人ヴォドニックは「フランス領イリュリア州」の時代、フランスが初等教育レベルでの民族語教育を行い、あらゆる階層に教育を受けさせようとしていたことから、初等教育を管轄される視学官に任命され、何冊かのスロベニア語文法書を著した上で、さらには「クハルスケ・ブクヴェ(Kuharske bukve、スロベニア語初の料理本)」や「バビシュトヴォ(Babištvo、助産婦のための手引書)」を著している。 スロベニア語の使用については市民の日常説活レベルまで及んでおり、そのために1800年からスロベニア語文法書が出版され、1808年には「カルニオラ、カリンティア及びスティリア地方のスラヴ語の文法(Grammatik der slavischen Sprache in Krain, Karnten und Steyemark)」が近代的文法書として初めて出版された。この作者であるコピタルはウィーン大学でのスラヴ語講座の開設に尽力(実際、開設されたのは死後であった)、多くの弟子を育てた。やがてその弟子のJ・N・プリミツは1812年にグラーツ高等学校を開設することとなり、一方でヴォドニックらの尽力で1817年にはリュブリャナで高等学校が開設された。しかし、さらに高度なレベルでのスロベニア語による教育はリュブリャナ大学が開設された1919年に始まる事となる。 さらに1806年、ヴォドニックはスロベニア語初の詩集、「試みのための詩(Pesmi za pokušino)」を出版したが、この後にスロベニア最大の詩人フランツェ・プレシェーレンが登場することとなる。プレシェーレンは1830年、スロベニア初の文学評論「クランスカ・チュベリッツァ(カルニオラの蜂蜜、Kranjska Čbelica)」の発行に加わり、1836年にはキリスト教布教時代を歌った「サヴィツァの滝(Krst pri Savici)」を出版、さらに現在、スロベニアの国歌として使われる歌詞は1884年にプレシェーレンが作詞したものであった。そして1847年、「ポエジエ(Poezije、詩集の意味)」を出版、これにプレシェーレンの詩の大半が含まれており、スロベニア人統一の政治綱領が翌年に発表された。後にこれはスロベニア語とスロベニア文学の代表作と化し、スロベニア人にとっての民族的シンボルと化す。 一方、シュタイヤーマルク州では「クメティイスケ・イン・ロコデルスケ・ノヴィツェ(農民・農業新聞)」 (en) が1843年に創刊されたが、この新聞は農民、商人、職人、農村部で教育活動を行う聖職者、教育者向けの記事を掲載したが、この新聞はスロベニア全土で読まれることとなり、プレシェーレンや愛国的な主張を行ったJ・V・コセスキ(Janez Vesel Koseski)の作品も掲載された。そして1861年、オーストリア新憲法が公布されると民衆の教化に力を注ぎ、スロベニア人らの民族意識の形成の準備を行うこととなる。
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