スターダム:ハリウッドでの活躍
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「青木鶴子」の記事における「スターダム:ハリウッドでの活躍」の解説
1915年、雪洲は『チート』(1915年)で一躍ハリウッドのトップスターの地位を確立し、マチネー・アイドル(英語版)として白人女性から高い人気を獲得した。雪洲夫人となった鶴子は、同年に『呪の焔(英語版)』に主演したあとは雪洲を支える側に回り、仕事のうえでも私生活でも雪洲の脇役に徹し、広告などでも「早川雪洲夫人(Mrs. Sessue Hayakawa)」と記されることが多くなった。雪洲は1916年から1918年までの間に、ジェシー・L・ラスキー・フィーチャー・プレイ・カンパニー(パラマウント・ピクチャーズの前身)との契約で15本以上の作品に主演したが、鶴子もそのうち『異郷の人(英語版)』『オナラブル・フレンド(英語版)』(1916年)など数本で雪洲と共演した。 ハリウッド社会の中でも、鶴子と雪洲夫妻の豪奢な暮らしぶりは別格だった。スターとして絶頂期を迎えていた1917年には、夫妻でハリウッドの一角にある「グレンギャリ城」と呼ばれる大邸宅で暮らし始めた。グレンギャリ城はスコットランドの城館のような4階建ての建物で、部屋が30以上もあり、7人の召し使いを雇っていた。夫妻は少なくとも週に1度は名士たちを集めて、グレンギャリ城の大広間で盛大なパーティーを開いた。グレンギャリ城にはチャールズ・チャップリンも朝、撮影所への行きがけにコーヒーを飲むために立ち寄り、夫妻とチャップリンは近所の友人となった。ルドルフ・ヴァレンティノもグレンギャリ城に遊びに来て、鶴子にイタリア料理を教えたという。 雪洲・鶴子夫妻の家庭生活は、たびたび映画雑誌などで報じられ、まさに一挙手一投足が注目を浴びるスター夫婦となった。例えば、『ピクチャー・プレイ(英語版)』誌の1917年3月号には、夫妻がダンスをしたり、愛犬のブルドッグの散歩に出かけたり、着物姿の鶴子が夫にお茶を入れてあげる姿などの写真が掲載された。1918年に夫妻でスペインかぜに感染した時も、映画雑誌に記事が掲載された。また、夫妻は映画雑誌で、貞淑な妻としての鶴子のイメージと、頼りがいのある男らしい雪洲というイメージで、理想的なカップルとしてファンに宣伝された。『フォトプレイ(英語版)』誌の1918年11月号では「どうやって夫をつかまえておくか 早川夫妻のオリエンタル・レッスン全四章」という記事が掲載され、その中で鶴子はアメリカ人読者に対して「夫が朝食のとき新聞を読んでいるときは黙っていましょう」などとアドバイスをしている。 当時のアメリカでは西海岸を中心に排日運動が高まりつつあり、1913年にはカリフォルニア州で日本人の土地所有を禁止する外国人土地法が制定されるなど、日系人はいわれのない人種差別を受けていた。そんな時代に活躍した鶴子や雪洲は、他のハリウッドで活躍した日本人俳優とともに、人種差別的な内容で白人たちの反日感情を助長しかねない「排日映画」に出演したとして日系人に激しく非難された。鶴子が単独主演した『イクの呪い(英語版)』(1918年)も人種差別的な内容で排日映画として問題に上がり、『チート』と並ぶ排日映画の代表と見なされた。1917年9月には排日映画を防止する目的のもと「日本人活動写真俳優組合」が結成され、雪洲が理事長に就き、鶴子も会員に名を連ねた。 1918年4月、雪洲は自身の映画会社「ハワース・ピクチャーズ・コーポレーション(英語版)」(1920年に「ハヤカワ・フィーチャー・プレイ・カンパニー」に改名)を設立し、スター兼プロデューサーとして4年間に22本の映画を製作したが、鶴子もこの会社に所属し、いくつかの作品で雪洲と共演した。鶴子の週給は1500ドルで、年収は8万ドル弱だった。ハワース・ピクチャーズ時代の鶴子の代表作は、アーネスト・フェノロサ夫人のメアリー・M・フェノロサ(英語版)の長編小説が原作の『蛟龍を描く人(英語版)』(1919年)であり、雪洲演じる天才画家のために自らを犠牲にする妻を演じた。鳥海美朗によると、この作品は「本当の日本をアメリカ人たちに示したい」という雪洲と鶴子の意気込みが凝縮された作品であるといい、鶴子の演技について「日本の精神文化を魅力的、かつ神秘的に表現した」と評している。 1919年7月、鶴子はユニバーサル・ピクチャーズと3本の映画に主演する契約を結んだ。『ロサンゼルス・タイムズ』はこれを歓迎するように報じ、鶴子に支払われる給料は「映画業界で最も高給のひとつ」であると記している。契約書には「(鶴子の出演作品では)日本人役はすべて日本人が演じ、装飾品もすべて鶴子の指示で吟味される」ことが明記されていたが、同社で3本目の主演作『神々の呼吸(英語版)』(1920年)では日本のセットのデザインを監督する役割も担当した。この作品は日露戦争時代が舞台の悲劇で、鶴子は国への忠誠と夫への貞節を尽くそうと自らを犠牲にする武家の娘を演じた。鶴子はこの作品で、映画会社による宣伝上の話題作りのために、1921年に嫉妬によるヒステリーから服毒自殺を図ったとする虚偽の新聞報道を流された。
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