ジャマイカ (軽巡洋艦)
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HMS ジャマイカ | |
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軽巡洋艦「ジャマイカ」
(1943年9月18日) |
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基本情報 | |
建造所 | バロー=イン=ファーネス、ヴィッカース・アームストロング |
運用者 | ![]() |
艦種 | 軽巡洋艦 |
級名 | クラウン・コロニー級軽巡洋艦 (フィジー級軽巡洋艦) |
愛称 | The Fighting J(戦うJ) The Galloping Ghost of the North Korean Coast (北朝鮮沿岸の駆け回る亡霊) |
モットー | ラテン語: Non sibi sed patriae (我が為でなく祖国の為に) |
建造費 | 2,072,211ポンド |
艦歴 | |
起工 | 1939年4月28日 |
進水 | 1940年11月16日 |
就役 | 1942年6月29日 |
退役 | 1957年11月20日 |
その後 | 1960年11月14日にスクラップとして売却 |
要目 | |
排水量 | 8,631ロングトン (8,770 t) |
全長 | 555 ft 10 in (169.4 m) |
幅 | 62 ft (18.9 m) |
吃水 | 19 ft 10 in (6.0 m) |
主缶 | 海軍本部式三胴型重油専焼缶×4基 |
主機 | パーソンズ式ギヤード蒸気タービン×4基 |
出力 | 80,000shp |
推進 | スクリュープロペラ4軸 |
速力 | 32.25ノット (60 km/h; 37 mph) |
航続距離 | 6,250 nmi (11,580 km; 7,190 mi)(16ノット (30 km/h; 18 mph)時) |
乗員 | 733名(平時)・900名(戦時) |
兵装 | Mk XXIII 6インチ砲(Mk XXII三連装砲架)×4基 4インチ連装高角砲×4基 2ポンド 四連装ポンポン砲×2基 エリコン 20mm単装機銃×10門 Mk IX 21インチ(533 mm)三連装魚雷発射管×2基 |
装甲 | 機関部:3.25インチ (83 mm) 主砲塔:1–2インチ (25–51 mm) 弾薬庫:2–3.5インチ (51–89 mm) 甲板:2–3.5インチ (51–89 mm) |
搭載機 | スーパーマリン・ウォーラス×2機(後に撤去) |
その他 | ペナントナンバー:44 船紋章:赤地に金のパイナップル |
ジャマイカ (HMS Jamaica, 44) はイギリス海軍の軽巡洋艦。クラウン・コロニー級軽巡洋艦(フィジー級軽巡洋艦)。
艦名は当時イギリス領であったジャマイカ島(ジャマイカ植民地)に由来し、イギリス海軍においてこの名を持つ艦としては6代目[1][注釈 1]。1941年12月にはウォーシップ・ウィークのキャンペーンに参加し、ブリストルの市民に割り当てられたが、戦後にはジャマイカ島訪問によって同島と強い関係を持った[1]。
艦歴
「ジャマイカ」は1938年度計画に基づき、1939年4月28日にバロー=イン=ファーネス、ヴィッカース・アームストロングで起工。1940年11月16日に進水し、1942年6月29日竣工した。
整調後は本国艦隊へ所属し、1942年9月にPQ18船団の間接護衛部隊に参加した。11月にはトーチ作戦を支援。この際、ヴィシー・フランス海軍潜水艦「フレネル」の攻撃を受けたが無事だった[3]。
バレンツ海海戦
12月、軽巡洋艦「シェフィールド」とR部隊を形成してバレンツ海海戦に参加した。
ロバート・L・バーネット少将は「シェフィールド」で指揮を執り、JW51B船団(護衛部隊指揮官ロバート・シャーブルック大佐)の間接護衛を担当した。するとクメッツ提督が率いるドイツ艦隊が、虹作戦を発動して連合国輸送船団を攻撃してきた[4]。連合軍側は最小限の被害と引き換えに[注釈 2]、重巡「アドミラル・ヒッパー」と重巡「リュッツォウ」など撃退して勝利した[5]。
英軽巡2隻は「ヒッパー」に機関室浸水被害を発生させて撤退に追い込み、味方と誤認して近づいてきたドイツ駆逐艦2隻を至近距離から砲撃して「フリードリヒ・エッコルト」を撃沈した[4]。
「ジャマイカ」は1943年7月から9月にかけて、ポーツマスで改装を行った。この改装で、「ジャマイカ」にはエリコン 20mm機銃が電動式連装銃架で6基と単装で4基装備された[6]。以降、「ジャマイカ」はRA53B船団、JW54A船団、JW54B船団、RA54B船団の護衛を担当した。
北岬沖海戦

同年12月には北岬沖海戦参加し、本国艦隊司令長官ブルース・フレーザー大将が指揮するフォース2に所属した。フォース2は、戦艦「デューク・オブ・ヨーク」、軽巡「ジャマイカ」、駆逐艦4隻で編成されていた。
オストフロント作戦により出撃してきたドイツ戦艦「シャルンホルスト」は、すでに巡洋艦部隊(ロバート・バーネット提督:軽巡「シェフィールド」、「ベルファスト」、重巡「ノーフォーク」)と交戦してレーダーに損傷を受けていた[7]。戦場に到着したフォース2は、「シャルンホルスト」を圧倒して撃沈した[7][注釈 3]。
船団護衛と戦艦「ティルピッツ」攻撃
1944年2から3月にはJW57船団・JW58船団・RA58船団の護衛に参加[9]。更に「ジャマイカ」はJW58船団から分離され、ドイツ戦艦「ティルピッツ」を攻撃する航空母艦「ヴィクトリアス」を護衛した(タングステン作戦)。7月には、再度「ティルピッツ」を空襲する空母「インディファティガブル」、「フォーミダブル」、「フューリアス」を支援した(マスコット作戦)。しかし、こちらの攻撃は不成功に終わった(戦艦ティルピッツに対する連合軍の攻撃一覧)。
その後の活動

1944年8月から9月にかけて、「ジャマイカ」はJW59船団とRA59船団の護衛に従事した[10]。同年10月から翌1945年4月にかけて近代化改装を受け、X(3番)砲塔は撤去されて対空兵装増強(2ポンド砲を四連装で5基と単装で4基、ボフォース40mm機銃を単装で4基、エリコン20mm機銃を連装で2基と単装で6基)、レーダーの新式化が行われた[11]。
改装後の1945年6月6日、「ジャマイカ」は御召艦として国王ジョージ6世と王妃エリザベスのチャンネル諸島訪問に用いられた[12]。
9月には東インド諸島艦隊第5巡洋艦戦隊に配属となり、インド洋方面へ展開。後に第4巡洋艦戦隊に移る。大戦終結後の1948年8月には北アメリカ・西インド諸島管区へ展開した[13]。
朝鮮戦争
「ジャマイカ」が日本に向かう途中であった1950年6月25日、朝鮮戦争が始まった。「ジャマイカ」とフリゲート「ブラックスワン」は、アメリカ海軍軽巡洋艦「ジュノー」と会合し、朝鮮半島東岸で進撃する北朝鮮軍を艦砲射撃した[14]。7月2日には注文津から戻る北朝鮮船団を発見して交戦。船団を護衛していた北朝鮮海軍の魚雷艇と砲艇が反撃してきたが、「ジャマイカ」ら国連軍部隊は損害なしに魚雷艇3隻と砲艇全てを撃沈した[15]。6日後、沿岸を砲撃中に75mm砲弾が「ジャマイカ」に命中し、死者6名・負傷者5名を出した[14]。
8月15日に群山を砲撃。9月15日には仁川上陸作戦に伴い、月尾島を砲撃するとともにアメリカ海兵隊第1海兵連隊を支援した。上陸2日後の夜明け、「ジャマイカ」と米重巡洋艦「ロチェスター」は北朝鮮空軍のYak-9 2機と交戦した。1機が「ジャマイカ」に機銃掃射を行い乗員1名が戦死したが、そのYak-9は対空砲火で撃墜された[16]。
その後

「ジャマイカ」は1953年5月から1954年まで、本国で予備役に置かれた。1954年に地中海艦隊での任務のため再就役し、第1巡洋艦戦隊に配属された。ジャマイカ訪問後の1955年6月からチャタム工廠で改装を受けた後、戦隊に再合流した[17]。

1955年末から1956年初頭まで、「ジャマイカ」は映画『戦艦シュペー号の最後(原題「The Battle of the River Plate」)』で重巡洋艦「エクセター」役として撮影に用いられた。第二次中東戦争に伴い、「ジャマイカ」は1956年11月にマスケティーア作戦に参加した[18]。ポートサイドでイギリス海兵隊の上陸を援護する砲撃部隊を率いたが、内閣が4.5インチ (114 mm)を超える砲による艦砲射撃支援を禁じていたため、主砲の発砲は許可されなかった[19]。
「ジャマイカ」はキール訪問後の1957年11月20日に退役し、保管船となる。1960年11月14日にブリティッシュ・アイアン・アンド・スチール・コーポレーション(BISCO)へスクラップとして売却された。同年12月20日にダルミュアのアーノット・ヤング社へ到着した「ジャマイカ」の艦体は、1963年8月15日にトルーンで解体完了した[1]。
「ジャマイカ」の船鐘はジャージーのトリニティ小教区教会に保存されている。
栄典
「ジャマイカ」は第二次世界大戦の戦功で3個の、朝鮮戦争の戦功で1個の戦闘名誉章(Battle honours)を受章した[1]。
- 「ARCTIC 1942」
- 「NORTH AFRICA 1942」
- 「NORTH CAPE 1943」
- 「KOREA 1950」
画像
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クヴァールフィヨルズルで1943年10~11月撮影。
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6インチ主砲塔内部。1943年5月撮影。
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「ジャマイカ」の水雷分隊員。1944年1月1日撮影。
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戦後の「ジャマイカ」の艦橋。1957年撮影。
登場作品
- 『戦艦シュペー号の最後(原題「The Battle of the River Plate」)』
- 重巡洋艦「エクセター (HMS Exeter, 68) 」役を務めた。
脚注
注釈
- ^ その他、第一次世界大戦中の1917年に徴用されたトロール船に同名船があるほか[1]、J級駆逐艦の1隻が「ジャマイカ」と命名されたが、本艦に名前を譲り「ジュノー」へ改名された[2]。
- ^ 駆逐艦「アケイティーズ」沈没、掃海艇「ブランブル」沈没、駆逐艦1隻大破。
- ^ 北海の怒濤上英艦隊と激戰 獨乙の至寶戰艦沈没 ― 二万六千噸シャーンハスト[8]【倫敦廿六日公報聯合通信】獨乙艦隊の至寶シャーンハスト號は開戰以來北海の聯合國對露レンド・リース航路遮斷の爲め幾多の苦戰を重ね、常に無事であつたが、一昨クリスマスの日、有力なる英國近海防備艦隊と遭遇、敢然交戰の結果、遂に北海の氷山を枕とし深海に沈降した旨公表された/ 此海戰は、英國側の 勝利であり、飛行機が此戰爭に参加したかどうか等、其他乗組員の死傷等に關する詳報は未だ不明であるが、此獨戰闘艦二万六千噸を失へば、殘る戰闘艦は僅かに二隻、チルピッツ號(四万一千噸)、並にグニーセノウ號(二万六千噸)のみである(記事おわり)
出典
- ^ J. J. Colledge; Ben Warlow (2010). Ships of the Royal Navy: The Complete Record of all Fighting Ships of the Royal Navy from the 15th Century to the Present. Newbury, Berkshire: Casemate. p. 201. ISBN 978-1935149071
- ^ Rohwer, pp. 195, 209–210
- ^ a b オスプレイ、ドイツ重巡 2006, pp. 18–20.
- ^ オスプレイ、ポケット戦艦 2006, p. 21.
- ^ Whitley, pp. 124–125
- ^ a b オスプレイ、ドイツ戦艦 2005, pp. 14–15.
- ^ “Yuta Nippō, 1943.12.27”. Hoji Shinbun Digital Collection. pp. 03. 2023年9月16日閲覧。
- ^ Rohwer, p. 307
- ^ Rohwer, p. 350
- ^ Friedman, p. 223
- ^ Smith, p. 269
- ^ Whitley, p. 125
- ^ a b Hagerty, John. “H.M.S. Jamaica Korean War Service 1950”. Britains-Small Wars.com. 2010年12月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年2月8日閲覧。
- ^ Field, Chapter 3, Part 4
- ^ Field, Chapter 7, Part 2
- ^ Fergusson, p. 391
- ^ Fergusson, p. 391
- ^ Varble, pp. 64–66
参考文献
- ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド1 German Battleships 1939-45 ドイツ海軍の戦艦 1939 ― 1945』手島尚〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2005年11月。 ISBN 4-499-22898-0。
- ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド2 German Pocket Battleships 1939-45 ドイツ海軍のポケット戦艦 1939 ― 1945』柄澤英一郎〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2006年1月。 ISBN 4-499-22899-9。
- ゴードン・ウィリアムソン〔著〕、イアン・パルマ―〔カラー・イラスト〕『世界の軍艦イラストレイテッド4 German Heavy Cruisers 1939-45 ドイツ海軍の重巡洋艦 1939 ― 1945』手島尚〔訳〕、株式会社大日本絵画〈オスプレイ・ミリタリー・シリーズ Osprey New Vanguard〉、2006年5月。 ISBN 4-499-22909-X。
- 「艦船名鑑WARSHIPS FILE1939~45」光栄 1997年3月24日初版
- 『世界の艦船』、1986年1月増刊号「近代巡洋艦史」、海人社
- Fergusson, Bernard (1961). The Watery Maze: The Story of Combined Operations. New York: Holt, Rinehart and Winston
- Field, James A. Jr. (1962). History of United States Naval Operations: Korea (Electronic ed.). Washington, D.C.: Naval Historical Center. オリジナルの16 August 2000時点におけるアーカイブ。
- Friedman, Norman (2010). British Cruisers: Two World Wars and After. Barnsley, UK: Seaforth Publishing. ISBN 978-1-59114-078-8
- Rohwer, Jürgen (2005). Chronology of the War at Sea 1939–1945: The Naval History of World War Two (Third Revised ed.). Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 1-59114-119-2
- Stephen, Martin (1988). Sea Battles in Close-Up: World War 2. Annapolis, Maryland: Naval Institute Press. ISBN 0-87021-556-6
- Varble, Derek (2003). The Suez Crisis 1956. Botley, UK: Osprey Publishing. ISBN 1-84176-418-3
外部リンク
「ジャマイカ (軽巡洋艦)」の例文・使い方・用例・文例
- 私たちはジャマイカに行くかハワイに行くかまだ決まっていない
- そのレストランはアキーと塩漬け鱈のような典型的なジャマイカ料理を出す。
- 日本ではなく、ジャマイカに送られた可能性がありますか?
- 彼はジャマイカに新居を構えた。
- 彼はジャマイカに住居を構えた。
- ジャマイカまでジェット機で飛ぶ.
- たれたくちばしとはっきりとした泣き叫び声を持つフロリダ・キューバ・ジャマイカ産の渉禽
- ジャマイカ(島または国)またはその住人の、あるいは、ジャマイカ(島または国)またはその住人に関する
- ジャマイカのラム
- ジャマイカの首相
- ジャマイカ産の濃厚で刺激的なラム
- 1950年代にジャマイカのキングストンのスラム街で起こった黒人の若者のサブカルチャーと宗教的な運動
- ジャマイカの北西にある、カリブ海域の英国領
- バハマ、セントルシア、アンティグア、グレナダ、ジャマイカ、バルバドス、トリニダードを含む英国の支配下であったであった旧西インド諸島
- ジャマイカ島にある国
- ジャマイカの首都で最大の都市
- ジャマイカ北西部の港でリゾート都市
- ジャマイカの出身者、または、居住者
- 麻薬密売と暴力のジャマイカの国際的な犯罪集団の一員
- ジャマイカの歌手で、レゲエを普及させた(1945年−1981年)
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