シャイレーンドラ朝の統治者一覧
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「シャイレーンドラ朝」の記事における「シャイレーンドラ朝の統治者一覧」の解説
伝統的にシャイレーンドラ時代は8世紀から9世紀のジャワ島中央部に置かれている。パナンカラン王(778年頃)からサマラトゥンガ(在位:812年 - 832年)の期間である。最近の解釈では、シャイレーンドラ家の時代はより長期に渡ったとされ、7世紀中葉(ソジョムルト碑文)から11世紀初頭(チョーラ朝によるシャイレーンドラ王朝の没落)の間だと考えられている。この期間、シャイレーンドラ王朝は中部ジャワとスマトラ島を支配した。シュリーヴィジャヤ家との婚姻関係が結ばれ、二つの王家の血筋は交じり合った。シャイレーンドラは最終的にシュリーヴィジャヤと中央ジャワのマタラムをも支配するに至った。 幾人かの史家がシャイレーンドラ統治者の一覧と順番を復元してきたが、中には意見の一致を見ない部分がある。Boechariはソジョムルト碑文を用いて所期シャイレーンドラの王統の復元を試み、Slamet MuljanaやPoerbatjarakaなど他の史家達はマタラムのサンジャヤ(英語版)(在位:732年 - 746年)とシュリーヴィジャヤをチャリタ・パラヒヤンガン写本(英語版)を元に関連づけて中後期の王統の復元を試みている。王統の復元は少なからず混乱しているが、それはシャイレーンドラが多くの王国、例えばカリンガ(英語版)、マタラムや後期シュリーヴィジャヤを統治していたことにある。この結果、同じ名前の王がしばしば重複して登場し、同時期にこれらの王国を統治している。以下のリストにも疑問符("?")付きの部分が多いが、これは史料が欠けている為である。 年代王または統治者の名前都石碑及び史料出来事650年頃 サンタヌ(Santanu) ? ソジョムルト碑文(英語版)(670年頃 - 700年) シヴァ派で古マレー語(英語版)を話した一族は中央ジャワの海岸地帯へと移住し始めたが、スマトラ起源、またはシュリーヴィジャヤを宗主国とするジャワ現地人の王家(臣従国)が起源であるとされる。 674年頃 ダプンタ・ヒャン(ダプンタ・スレンドラ / Dapunta Selendra) バタン県(中部ジャワの北岸) ソジョムルト碑文(英語版)(670年頃 - 700年) 王家の支配を確立し、'Selendra'(シャイレーンドラ)の語が最初に言及されている王。 674年 - 703年 シマ(英語版)(女王)(?) カリンガ(英語版)(ペカロンガンとジェパラの間) チャリタ・パラヒヤンガン写本(英語版)、会寧(Hwi-ning)が、664年に訶陵王国(Ho-Ling または Kaling)を、674年にシマ女王統治下の王国を訪れたとしている。 カリンガ王国(英語版)を統治 703年 - 710年 Mandimiñak(?) ? チャリタ・パラヒヤンガン写本(英語版) 710年 - 717年 サンナ(Sanna) ? チャンガル碑文(英語版)(732年)、チャリタ・パラヒヤンガン写本(英語版) ジャワを統治したが、死後に王国は他国の侵略を受け混乱に陥った。 717年 - 760年 サンジャヤ(en) 古マタラム王国、中央ジャワ チャンガル碑文(英語版)(732年)、チャリタ・パラヒヤンガン写本(英語版) サンナの甥であるサンジャヤは秩序を回復させ、王位を継承した。この出来事を新しい王朝サンジャヤ朝の創設ととらえた歴史家がいた一方で、シャイレーンドラ朝が継続したとみなした歴史家もいた。 760年 - 775年 ラカイ・パナンカラン(英語版) 古マタラム王国、中央ジャワ サンカラ碑文(インドネシア語版)、カラサン碑文(英語版)(778年)、チャリタ・パラヒヤンガン写本(英語版) ラカイ・パナンカランはシヴァ崇拝から大乗仏教に改宗し、カラサン寺院を建造した。 775年 - 800年 ダラニンドラ(英語版) 古マタラム王国、中央ジャワ ケルラク碑文(英語版)(782年)、リゴールB碑文(英語版)(787年頃) スマトラのシュリーヴィジャヤも支配し、Manjusrigrha寺院を建設、ボロブドゥールの建設を開始した(770年頃)。ジャワはリゴールおよび南カンボジア(真臘)を支配した(790年頃)。 800年 - 812年 サングラーマグナンジャヤ 古マタラム王国、中央ジャワ リゴールB碑文(英語版)(787年頃) シュリーヴィジャヤも支配したが、カンボジアを失った(802年)。 812年 - 833年 サマラトゥンガ 古マタラム王国、中央ジャワ Karangtengah inscription(824年) シュリーヴィジャヤも支配し、ボロブドゥールを完成させた(825年) 833年 - 856年 プラモーダヴァルダニー(英語版)夫のラカイ・ピカタン(英語版)とともに共同統治した。 古マタラム王国、中央ジャワ Shivagrha inscription(856年) バーラプトラに勝利し、シュリーヴィジャヤ王国に追い出した。プランバナン寺院およびプラオサン寺院を建築した。ピカタンの後継者である、ロカパラ(Lokapala、850年 - 890年)からワワ(Wawa、924年 - 929年)までの古マラタム王国の王はシャイレーンドラ朝の家系であるが、マンティヤシ碑文(907年)に見られるバリトゥン(Balitung、898年 - 910年)は、サンジャヤ朝の家系とされる。 833年 - 850年 バーラプトラ・デワ(英語版)(BalaputraまたはBalaputradewa)。 シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ Shivagrha inscription(856年)、ナーランダ碑文(英語版)(860年) ピカタン・プラモーダヴァルダニーに敗北し、中央ジャワから追い出されスマトラに逃げ、ジャワ出身のシャイレーンドラ朝の正当な後継者としてシュリーヴィジャヤを統治した。 960年頃 Śri Udayadityavarman シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(960年および962年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った。 980年頃 Haji (Hia-Tche) シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(980年 – 983年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った。 988年頃 Sri Culamanivarmadeva シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(988年 - 992年 - 1003年)、タンジョール碑文もしくはレイデン碑文(1044年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った。ジャワの王ダルマヴァンシャはシュリーヴィジャヤを占領したが、そこには中国皇帝のために寺院が建設されており、ラージャラージャ1世に捧げられた。 1008年頃 Sri Maravijayottungga シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(1008年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った(1008年)。 1017年頃 Sumatrabhumi シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ 中国への使節団(1017年) 朝貢および貿易のため中国へ使節団を送った(1017年)。 1025年頃 サングラマ・ウィジャヤトゥンガワルマン(英語版) シュリーヴィジャヤ、南部スマトラ チョーラ碑文(ブリハディーシュヴァラ寺院、タンジャーヴール) チョーラ朝がシュリーヴィジャヤを急襲し、首都はラージェーンドラ1世によって占領された。
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