シカゴ時代
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1894年、新設されたシカゴ大学に哲学科主任教授として招かれ、ミードとともに移る。シカゴ時代に経験に基礎づけられた知識の理論を開発し、Thought and its Subject-Matterとしてまとめられ、さらに大学同僚との共著『Studies in Logical Theory (1903)』として出版される。のち新しいプラグマティズムとして認知される。 1896年には既存の心理学を根底から覆した、初期の最も重要な仕事ともいわれる「心理学における反射弓の概念The Reflex Arc Concept in Psychology」を発表する。同年1月、実験学校Laboratory School(のちシカゴ大学付属実験学校)をつくる。個人宅を借り、生徒は16人、教師は1人(他に補助教師が1人)であった。様々な折衝を経て、1898年秋には実験室や食堂などを敷設した校舎に移る。生徒は82人になっていた。翌1899年4月、関係者や生徒の親たちを前に、3年間の実験の報告を3度行う。この講演の速記をもとに出版されたのが後に教育理論の名著として知られることになる『学校と社会』(1899年)である。なお実験学校は1903年まで続き、のちデューイスクールと呼ばれる。なお同年、アメリカ心理学会会長に選出されてもいる。
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シカゴ時代
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「チャールズ・ヤーキス」の記事における「シカゴ時代」の解説
1881年、ヤーキスは離婚するためダコタ準州ファーゴを訪れ、その年の後半に離婚したうえシカゴに転居した。ヤーキスはシカゴで株と穀物のブローカーを開業、すぐにシカゴの公共交通機関整備計画に参画するようになった。1886年、ヤーキスと彼の協力者たちは複雑な金融取引で北シカゴ路面鉄道(英語版)を買収、同様の手段でシカゴ北部及び西部の路面電車路線網の大半を手中に収めた。この過程ではヤーキスは賄賂や脅迫状もいとわなかった。 世間に流布した悪評を改善するため、ヤーキスは1892年、天文学者ジョージ・ヘールとシカゴ大学学長ウイリアム・レイニー・ハーパー(英語版)のロビー活動を受けて当時世界最大の望遠鏡に出資することを決めた。当初望遠鏡だけの方針だったが、最終的には天文台全体に出資することになり、$300,000近くをシカゴ大学に拠出、ウィスコンシン州ウイリアムズ湾(英語版)にヤーキス天文台と名付けられた天文台が建設された。 1895年、ヤーキスは路面電車路線網の運営権を拡大する活動に投資したが、イリノイ州知事ジョン・ピーター・オルトゲルドがこの運営権法案を廃案にした。ヤーキスは1897年に活動を再開、激しい争いののちイリノイ州議会(英語版)は運営権拡大権付与の権限をシカゴ市議会(英語版)に委譲した。運営権戦争と呼ばれた争いの舞台はヤーキスがそれまで常に成功してきた市議会に移されたが、カーター・ハリソン・ジュニア(英語版)市長により部分的に改選された市議会は浮動票である市会議員"ヒンキー・ディンク"・カナ(英語版)と"バスハウス" ジョン・コフリン(英語版)の票を得てヤーキスに勝利した。 1899年、ヤーキスはシカゴの公共交通機関の大部分の権利を売却し、ニューヨークに移った。
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シカゴ時代
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「ジョン・ウェルボーン・ルート」の記事における「シカゴ時代」の解説
1871年にシカゴに移り、そこで建築会社のドラフトマンとして勤務。2年後の1873年にダニエル・バーナムに出会い、二人でバーナム・アンド・ルート事務所を設立し、こののち18年間協働する。 1873年の不景気時代、ルートは他の事務所の仕事をこなしたり、長老派第一教会のオルガン奏者として凌いだこともあった。
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