創成期・シカゴ時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 02:29 UTC 版)
「アリゾナ・カージナルス」の記事における「創成期・シカゴ時代」の解説
シカゴ・カージナルスのロゴマーク チームは1898年にクリス・オブライエンにより、モーガン・アスレチッククラブとしてシカゴで創設された。1899年にチームはホームスタジアムをノーマル・パークに移しラシーン・ノーマルズと改称、1901年にシカゴ大学からマルーンのユニフォームを購入した。この時オーナーはこれはマルーンではなくカーディナルレッド(枢機卿の礼服の色)だと述べ、それがチームの愛称となりラシーンストリート・カージナルス(Racine Street Cardinals)と改称した。チーム名のラシーンは、シカゴのラシーン・アベニューから取られた。1906年にいったんチームは解散したが1913年にプロチームとして再建された。1918年に第一次世界大戦、スペインかぜの影響で活動を一時停止したが年内に活動を再開した。 1920年にラシーン・カージナルスとしてNFL(当時は、アメリカン・プロフェッショナル・フットボール・アソシエーション、1922年に現名称)に加入し、オリジナルメンバーとなった。NFL発足当時から現在まで存続しているチームは他にシカゴ・ベアーズ(当初はデカター・ステイリーズ)のみである。1922年にウィスコンシン州ラシーンを本拠地とするホーリック・ラシーン・リージョンが加入したため、俗称のシカゴ・カージナルスを正式にチーム名とし、同時に本拠地もコミスキー・パークに移した。1925年に11勝2敗1分の成績でチームは初めてNFLチャンピオンとなった。1929年、オブライエンオーナーはデビッド・ジョーンズへ2万5000ドルでチームを売却した。その後1932年にジョーンズからチャールズ・ビドウィルへチームの売却について合意がなされたがシカゴ・ベアーズの株式を持っていたビドウィルがこれを売却する1933年まで合意が公表されることはなかった。 その後1930年代には10年間で2回しか勝ち越しできなかった。1933年よりリーグは東西2つに分かれることとなったが、カージナルスはウェスタン・ディビジョンに所属することとなった。1936年から1945年までは10シーズン連続で負け越した。第二次世界大戦の影響で1944年に1シーズンのみピッツバーグ・スティーラーズと合同チームを結成しカード・ピット(Card-Pitt)となったが10連敗に終わった。 1945年は1勝に終わったものの1946年には6勝5敗と勝ち越し、1947年に9勝3敗の成績を上げたチームはその年のNFLチャンピオンシップゲームでフィラデルフィア・イーグルスを28-21で破り2度目のNFLチャンピオンとなった。しかし優勝の8ヶ月前にビドウィルオーナーは肺炎のために亡くなっており未亡人のバイオレット・ビドウィルがオーナーに就任していた。この時のスター選手はQBポール・クリストマン、HBチャーリー・トリッピ、エルマー・アングズマン、FBのパット・ハーダーらであった。1948年チームは11勝1敗で2年連続NFLチャンピオンシップゲームに出場したがこの年は0-7でフィラデルフィア・イーグルスに敗れた。1949年バイオレットオーナーはミズーリ州セントルイスの実業家、ウォルター・ウォルフナーと結婚した。チームは6勝5敗1分でシーズンを終えた。 1950年、NFLにオール・アメリカ・フットボール・カンファレンス(AAFC)から4チームが加入した際、アメリカン・カンファレンス(1953年からイースタン・カンファレンス)に所属することとなった。チームは1950年代の10年でわずか33勝しかあげることができず観客はまばらとなりチームは倒産寸前となった。
※この「創成期・シカゴ時代」の解説は、「アリゾナ・カージナルス」の解説の一部です。
「創成期・シカゴ時代」を含む「アリゾナ・カージナルス」の記事については、「アリゾナ・カージナルス」の概要を参照ください。
- 創成期・シカゴ時代のページへのリンク