サーマーン朝〜ガズナ朝時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 10:10 UTC 版)
「ペルシア文学」の記事における「サーマーン朝〜ガズナ朝時代」の解説
アラブ支配の2世紀余りを経て、イラン東北部に民族王朝サーマーン朝が樹立され、サーマーン朝の統治下ではペルシア文学が振興された。ここでの文芸復興とは、イスラーム期以前の古代ペルシア文化の復活、再生を意味するのではなく、これまで独占的な地位を保ってきたアラビア語支配を脱して、近世ペルシア語によるイスラーム的ペルシア文芸の復興を意味する。10世紀にペルシア文学は華麗に開花し、ルーダキーをはじめとする多くの宮廷詩人と吟遊詩人が現れ、またアラビア文学作品の翻訳による散文文学が勃興した。 サマルカンドの東方ルーダクという村の出身であったルーダギーは、「ブハーラー宮廷の華」と謳われ、「詩人の父」や「詩人の帝王」の尊称で呼ばれた詩人であった。宮廷詩人として頌詩に最も秀でており、なかでも「酒の母」と題する頌詩が名高い。これは、「酒の母を犠牲にし、その子を/奪い獄に投ぜねばならぬ」という言葉から始まり、酒の母(葡萄)が酒(葡萄酒)に成る過程を詠んだ約百句から成る詩である。他にも「老いを嘆く詩」という頌詩が代表作である。彼の詩の特色は民衆的要素が多いことである。すなわち、極めて素朴、簡素、平明にして流麗で、誇張、華美な表現を用いず、用語の面でも難解で華やかなアラビア語彙をあまり使わず、専ら素朴なペルシア語彙を用いている。これらに加えて宗教的色彩が殆ど現れていないことが、サーマーン朝時代のペルシア詩の大きな特色である。彼によって基礎がおかれたスタイルは古典ペルシア詩の主流として発展し、写実主義を特色とする「ホラーサーンスタイル」として知られるようになった。富と名声を極めた彼であったが、彼の保護者でもあった宰相バルアミーの失脚により、937年突如としてブハーラー宮廷から追放された。 ルーダギーに次ぐ民族叙事詩の偉大な先覚者としてダキーキーがいた。トゥースで生まれた彼は、若くしてサーマーン朝に隷属したチャガーニヤーン地方君主に宮廷詩人として仕えた後、マンスール一世やヌーフ二世に仕えた。彼がペルシア文学史上に不朽の名声を留めたのは頌詩詩人ではなく、フェルドゥスィーの先駆者として民族叙事詩を作詩したことによる。ヌーフ二世の命により、恐らくアブー・マンスールによる散文『王書』に拠って、ムタカーリブの韻律を用いて作詩を始めた。しかし、グシュタースプ王の即位、ゾロアスターの出現、同王の帰依、アルジャースプ王との闘いを中心に約1千句を作詩したばかりで、奴隷の手によって殺害され、作品は未完に終わった。その一千句はフェルドウスィーの『王書』に収められた。 サーマーン朝と次のガズニー朝時代の両時代に生きたフェルドウスィーは、民族・英雄叙事詩の完成者としてペルシア文学が世界に誇る大詩人である。彼はガズナ朝のスルタン・マフムードと関係が深かったが、彼の作品はあくまでもサーマーン朝の時代精神・思潮の産物である。『王書』は作詞に着手してから約三十年の長い月日を費やし、文字通り心血を注いだ後ついに1010年に完成された。フェルドウスィーの『王書』は、アブー・マンスールの『王書』の他にも多くの資料を利用した。おそらく、イラン民族主義に適したものを取捨選択したと考えられている。『王書』のイラン人精神形成に対する貢献は大きく、1934年イラン政府はこの偉大な民族詩人を讃えるために盛大な生誕一千年祭を挙行した。他にも、文学に限らず美術にも甚大な影響を及ぼし、ペルシア・ミニアチュールの題材もこの『王書』からとったものが極めて多い。 ガズナ朝期までの特色は、王と貴族の知遇を受けた詩人による頌詩が主体を成したことで、このような意味でペルシア文学は宮廷文学から始まったといえる。これと共に、時代精神を反映した民族的叙事詩も大きい比重を占めていた。 11世紀前半の支配者ガズナ朝のマフムードに仕えた宮廷詩人は400名にもなったと言われている。なかでも、卓越した存在としてウンスリー(ペルシア語版)、ファッルヒー(英語版)、マヌーチフリーの三人が挙げられる。彼らはホラサーン・スタイル(ペルシア語版)の完成者としてその名が知られている。
※この「サーマーン朝〜ガズナ朝時代」の解説は、「ペルシア文学」の解説の一部です。
「サーマーン朝〜ガズナ朝時代」を含む「ペルシア文学」の記事については、「ペルシア文学」の概要を参照ください。
- サーマーン朝〜ガズナ朝時代のページへのリンク